ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

子どもとは?大人とは?リアリティと人間味溢れる映画「存在のない子供たち」に圧倒された。

中東・レバノンを舞台にした映画「存在のない子供たち」を先月見ました。リアリティがありながらもストーリーが素晴らしく、見応えがあり、「すごいものを見た」という感覚が残りました。少々ネタバレありで、映画の感想を書いてみます。

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レバノン出身の監督兼女優、ナディーン・ラバキー最新作。


7/20(土)公開『存在のない子供たち』予告

わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。訴えた相手は、自分の両親だ。裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。果たしてゼインの未来は―。

映画「存在のない子供たち」公式サイト 2019年7/20(土)公開

劇中にゼインの弁護士役でも出演しているナディーン・ラバキーさんが、監督・脚本を手がけています。

ちなみに原題は「Capernaum(カペナウム)」。新約聖書に出てくる地名で、“カオス”の代名詞的に、混沌とした状況を表すため使っているようです。(参考:The meaning behind the title of 'Capernaum' - Los Angeles Times

 

街でスカウトした演者たちのリアリティがすごい

この映画の一番重要な構成要素は、演者たち。主要な登場人物はプロではなく、映画の登場人物に近い境遇の人たちを街で探し、スカウトしたのです。素人だからと言って演技やセリフに不自然さは全く見当たらず、逆に、みんな存在感があって、ただ演じるだけでは簡単に出てこないリアリティ・人間味に心底引き込まれました。

例えば、主人公を演じるゼイン君(役名も本名も同じ)は2004年シリアで生まれ、のちにシリアの情勢悪化のためレバノンへ逃れてきました。首都ベイルートで、10歳から配達などの仕事をしていたそう。2018年には、家族でノルウェーに移住しています。


7/20公開『存在のない子供たち』ゼインのインタビュー

また、ラヒル役のヨルダノス・シフェラウさんは、エリトリアで生まれ、エチオピアの難民キャンプで幼少期を過ごし、のちにベイルートで住み込みの仕事をします。そこから逃げ出した後も、レバノン国内で違法に働いており、映画の撮影中に劇中のラヒルと同じく不法移民として逮捕されてしまったそう。監督が保証人となって釈放されたそうです。

この2人だけでなく、主な出演者全員に壮絶なストーリーがあります。HPでぜひ読んでみてください。sonzai-movie.jp

大変な境遇で生きてきた人たちにこうして光があたることで、その人たちの人生が、精神的にも経済的にも少し良いものになったのではないかと思います。そう願いたいし、応援したくなる。映画が社会にできることの可能性を感じる、素晴らしい取り組みだと思います。

こちらのメイキング動画では、ヨルダノスさんが「家族がどういうものかを教えてくれた」と言っていて、感動しました。今まで大変だった分、映画に出たことが良い経験・思い出になっていたらいいな。


7/20公開『存在のない子供たち』メイキング~カンヌ~

 

年齢は子どもでも、中身は大人。

主人公ゼインは「12歳くらい」ですが、学校に行かず働いてきたことや、12歳には不釣り合いなほど様々な経験をしてきたからか、世の中に対してとても擦れた視線や態度を持っています。周囲もそれほど子ども扱いせず対等に接する。ある意味、良くも悪くも大人扱いされてきたことで、「中身は大人」なゼイン。

 “子ども”でいられる期間が短かったのは良くなかったかもしれませんが、その一方で、対等に接せられている様は羨ましさも覚えました。

小学生くらいの年齢だと、周りの“大人”からは子ども扱いされたり、子どもらしいあどけなさを求められたりしますよね。私はその点で、子どもの頃どうしていいかわからない時がたくさんありました。親以外の大人と話すときはタメ口なのか敬語なのかとか。おじいちゃんの膝の上に乗せられるのが嫌だったとか。そこらへんをどうしていいかわからなかったから、「人見知り」「大人しい」という風に見られる態度をしていたというだけ。子どもらしさを求められない年齢(中学以降くらい)になってきてからは、その点はとても楽になったのを覚えています。

ここ数年教育関係のことも関心を持つうち、私は「子どもはもっと大人だし、大人はもっと子どもだ」と思うようになりました。そしてそのあり方や成熟度の違いは、年齢と直結せず、ひたすら個人によるのだということも。だから私は、子どもや少し年下の人と関わる機会があっても、できるだけ対等でいたいと思うし、子どもを育てる時があったら、10歳くらいからは一人前扱いしたい・家計や性のことなども話したいと思っています。

そんな考えがある中で、ゼインのあり方や、彼に接する周囲の大人のあり方を見ると、「対等でいいなあ」と思えました。

でもその一方で、ラヒルの息子ヨナスを自分の弟だとかばうため、「弟の肌が黒いのは、お母さんがコーヒーを飲みすぎたから。僕も昔は黒かった」とあどけない言い訳をする場面などもあり、まだ“大人”になりきってはいない彼のあり方を表していて、絶妙なバランスだったと思います。ひたすら憤りや理不尽さを感じてしまいがちなストーリーに、可愛さやクスッとしてしまう面白さを提供してくれました。

ゼインが、助けを求めたい大人にすっと寄って行く様子も描かれますが、それは「子どもだから」ではなくて、大人でも本当はそうあるもの。信用できる大人とできない大人を、彼なりに一瞬で見分けているのを感じました。自分でできることは自分でやることが美徳とされがちな日本社会から見るとなおさら、「なんでも一人でできることが“大人”ではない」と改めて思わされました。

 

少しドキッとしてしまうけど、必要な、性の描き方

ゼインが妹のズボンに血が付いているのを見つけ、生理が始まったことを悟り、「嫁に出されてしまう」と2人で家出を企てる場面。狭い部屋の、布一枚で仕切っただけの場所で親のセックスを察する場面。このような、性に関わる場面が物語の鍵の一つだと思いました。

日本でこういう描写ができるかと考えると、タブー感があって厳しそう。見ていても、少しドキッとしました。でも、本当は身近なはずの性。だからこそ、物語の鍵となる場面をこういうものにするアプローチはすごいなと思ったし、こういう描写もありだなと気づかされました。

 

親への憤り・葛藤。「真に子ども目線」な描き方

ゼインは劇中で、「満足に育てられないのに子どもを産んだ」ことで親を訴えます。このゼインの憤りに、とても共感しました。

というのも、晩婚・晩産化が進んでいること(に付随して、体力や将来の経済的に不安があること、それが親にかかってしまうほど地域や親族のつながり・支えが薄れていること)や、数やアクセスばかり重視して、子が育つ環境としてはどうなんだろうと考えさせられる様な保育園のあり方に違和感を覚えているからです。「子どものことを本当に考えているのか」「大人のエゴを押し付けていないか」と思わせられるから。そして私は昔も今も、年の離れた親に対して、助けになりたい・自立したいけどできない悲しみや寂しさや、私なりに親を思って背負ってきたものを理解されないこと、家庭の問題を子どもの問題として片付けられていることに憤りがあるから。

ボロボロの狭い家にたくさんの兄弟が住み、経済的に苦しい状況なのに、親は布で仕切った先でセックスをし、母はまた妊娠する。親もいろんな知識を得る機会がなかったのだろう、経済的に苦しいからこそそうなる、と想像はつきますが、“大人”としては未熟とも言える。その結果生まれる悪循環を目の当たりにするゼインの憤りも理解できます。この作品では主にゼインの視点に立つことで、自分だけではどうしようもない、理不尽なことに翻弄されるという普遍的な事柄が共感を呼びます。

 

子沢山であることが、抵抗でもあり、悲しみの再生産にもなる

しかしながら、レバノンのスラムはどうかわかりませんが、隣国パレスチナでは、「子沢山であることが、抵抗でもある」という現状があります。そのことを想起せずにはいられませんでした。

パレスチナ内には今でもイスラエルの「入植地」が増えています。ガザ地区はインフラや人の行き来がかなり制限されてしまっています。パレスチナとしては、まずイスラエルという国自体も突然出来て、ユダヤ人に土地を追い出されてしまったのに、より徹底的に潰されかけているのです。これで人口まで減ってしまったら、イスラエルの思う壺で、本当になくなってしまう。存在を脅かされている危機感があるのです。

イスラエル内のアラブ人は、ユダヤ人よりも増加率が多く、イスラエルにとっては「ユダヤ国家」であるという基盤が危ぶまれています。それで入植地拡大にも必死なのです。そんな、「人口の闘い」を、映画からも感じました。

一方で、決して満足いく環境ではない場所で多くの子どもが育つことは、悲劇の再生産にもつながりかねません。育ったところで、仕事がない、希望も持てないという環境だったら、テロ等に加担するしかなくなってしまうかもしれない。子どもを産んでもそんな思いをさせるくらいだったら産まない方がいい、という考えもできる一方で、そうやって自ら気持ちも人口もしぼんでしまうわけにもいかない。そんな葛藤があります。

 

力強く生きるゼインの姿に、最後は希望も持てる

理不尽さや憤りを抱えながらも、なんとか生き抜くゼイン。こんなにしっかりしていて、まだ12歳なんだったら、きっとこれからも生き抜いてくれる、何だってできる、と希望も持てました。そして、自分も頑張らなきゃなと思えました。

劇中で基本笑うことのなかったゼインが、初めて身分証明書を作るため写真を撮る場面でようやくニヤッと笑ったラストシーンに、どうか彼がもっと笑って過ごせるようにと願わずにはいられませんでした。

5年以上、中東を舞台にした映画が公開されれば大体見に行っていますが、希望が持てる終わり方をする作品は本当に少ないです。ドキュメンタリーは特にそうだし、フィクションの作品であっても心底絶望するものも多いです。なので、中東は好きでも映画は「しばらくいいや…」と思い、距離を置いていました。しかし、そんな私でも、この作品は見てよかったと思えました。いろんな人に見て欲しい名作です。