ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

タイムラインは見ずに、ブラウザから見たい人の投稿だけ見る。私のSNSとの付き合い方。

この5〜10年で一気に普及した、SNS。私も大学に入ったタイミングでSNSデビューしました。色々良かったこともあるけれど、今は弊害の方を強く感じていて、自分なりに工夫してSNSと付き合っています。

 

SNSの特徴、タイムラインに感じる「気持ち悪さ」

SNSの最大の特徴は、「タイムライン機能」だと思います。

それまでにあったブログや「リアル」などは、個人のページがそれぞれ独立していて、いろんな人の新着投稿をチェックするにはそれぞれのページを見て回る必要があったわけです。

しかしタイムラインという機能を導入したことで、「誰の投稿」というのでページが区切られるのではなく、「最新の投稿」という時間軸で1つのページが構成されることになりました。

そのメリットは、何が今話題で、それについて誰がどう思うかがすぐわかること。自分もその話に入れるし、みんなで盛り上がれる。そういう、「同時性」や「今について知る」という目的はタイムラインで果たしやすいと思います。

でも私は、デメリットの方を強く感じています。いくつか挙げてみます。

文脈がカオス

先ほど「話題がわかる」とは書いたものの、それって似たような分野の人だけフォローして見ていれば成立するかもしれませんが、そうではない場合、タイムライン上でいろんな文脈が入り乱れることになる。それが気持ち悪くて仕方ないのです。頭の中がぐにゃっとしてくるのを感じます。自分の興味のある人やテーマは、「今」で括るには大きすぎる。

特にTwitterは短い文が主だから、入り乱れっぷりが半端ない。スマホの画面でも、全く関係のない3人分ほどの投稿が並んだりするわけで。頭がついていけません。

 

どんな人の投稿も、フォローしている限り押し付けられる

SNSで投稿する人にはいろんな人がいて、その人それぞれにもその人なりのタイミングがあって。自他を鼓舞させるような強い言葉が並ぶ時もあるし、あまりにも何でもない言葉が発せられる時もある。こういう意味でもカオスな文脈。

そしてそれを見る自分自身も、いろんなタイミングがある。楽しい時もあれば、辛い時もある。タイミングによって見たいもの、受け入れられるものは違うはずなのに、タイムラインから投稿を見る限りは、見る投稿をほぼ選べない

私の場合、どんな人の投稿も見ていられるのは、相当日々が充実しているときだけです。笑 そうでないと、比べてしまう。意識の上でも無意識にでも、心に引っかき傷がついていってしまいます。

 

受動的になりすぎてしまう

選ぶことなく「流れてくる」投稿を見るというのは、思ってもいなかった情報に出会える可能性も秘めています。実際それで出会ったものもたくさんあります。

だけど一方で、「これを見よう」「この人は何をしてるのかな」と考えなくても情報を受け取れてしまうことで、受動的になってしまうのを感じています。タイムラインの前では操られたように、自分の意思や感情さえもなくなっていくのです

SNSを運営している企業は、できるだけ長い時間自分たちのサービスを使ってもらうことで、広告費などを稼いでいます。だから、何も考えずにだらだらとタイムラインを見てしまうのって、うまくその企業の思惑に乗せられているのかも。

 

私のSNSとの付き合い方

ブラウザからアクセス

SNSのアプリだと、開いて最初に出る画面はタイムライン。アプリだと手軽にすぐ見てしまいがちでもあるので、アプリはやめてブラウザからアクセスしています。

 

「フォローしている人」ページにアクセス→気になるアカウントだけ見る

ブラウザからは、できれば「フォローしている人」の一覧ページに直接アクセスします。そして「この人の新着投稿があったら見たい」という人を選んで、その人のページから投稿をチェックします。

私は以下のページをブラウザでお気に入り登録しています。

Twitterは直接フォロー一覧にいけますが、Instagramでは直接アクセスできるのは自分のアカウントのページまでのようです(/followingをつけても表示されるのは自分のアカウントページ)。まあ、タイムラインを見てしまうよりはましですが。

でもインスタの場合、ストーリーズの新着があるとアカウントの写真のところにマーク?(光の輪っかみたいなの)がつくので、フォロー一覧から新着がある人がわかりやすくて良いです。(他の投稿やTwitterもそうなってほしい。)

こうすることで、「正直最近この人の投稿あんま見たくない」ということが多くてもミュートをしなくて済むし、自分から自分に必要な情報を取りに行っている感覚を取り戻すことができます。


SNSでフォローして見ていたサイトやニュースは、直接アクセス。

SNSで出会った面白いサイトは、そのままSNS上でフォローして新しい記事などの情報を得ていました。しかし、SNSから距離を置くことにした際に、ブラウザのお気に入りにそのサイトを登録して、時々見たい時にチェックするようにしました。

SNSがないと、こういう良いサイトの情報が取れなくなる」と思い込んでいましたが、SNSを介さなくてももちろんアクセスできるわけで。SNSで見かけないことでサイトのことを忘れ去ってしまうくらいなら、自分にとってはその程度だったということでもあります。

 

情報の量と幸福度は反比例する。情報過多の時代に幸せでいるために。

以前読んだ本によると、ブータンの前国王が、「情報を入れれば入れるだけ欲望が増す」というようなことを言っていたとか。(記録が見当たらないので曖昧ですが多分この本で読みました。↓) 

ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国

ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国

 

そこから私が思ったのは、「情報の量と幸福度は反比例する」ということ。SNSにある情報だって、知らなければ、「こんなところに私も行ってみたい」という欲望も生まれないし、「自分の生活は充実してない」とかいう自己卑下もしなくて済む。

私が半年前経験したことを例に出すと、あるアーティストのイベントが近場であったと後日SNSで知って、「何だよ、行きたかった〜」と思ったのも、イベントの存在を知ったからがっかりしたわけで。イベントのことをそのまま知らなかったら、がっかりもしなかった。

昔の方がきっと幸せを感じやすかったのは、情報が限られていて、良くも悪くも他の選択肢を知らなかったから。今は、誰がどんな生活を送っているか見えすぎて、欲望も湧くし、その欲が叶わない悲しさや悔しさも増す。前も似たようなことを書きました。↓mizukifukui.hatenablog.com

こんな時代だからこそ、幸せを噛みしめるためには、ある程度情報は選んだり絞ったりしなきゃいけないんだと思う。何でも取り入れていたら、感情も磨耗して、幸せを感じられなくなってしまう。

でも、選り好みによって、自分の見たい世界しか見なくなってしまう、脳内お花畑状態にもなりうる。それは怖い。だから、自分が選別すべきところと、ある程度無選別に必要な情報を受け取るバランスが求められる時代。私にとっては、SNSは前者の「自分が選別すべきところ」。

人によって、いろんな「情報との付き合い方」があると思います。私もまだまだ考えていきたいテーマです。今回はまずSNSの話だけしましたが、また、別の情報源とどう付き合っているかも考えてまとめてみたいと思います。


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