ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

置いていかれる恐れと、傷つく前に傷つける・離れるという行動をしてしまう私の内心。

最近、「置いていかれるのが怖い」「こんな私では見放される」というのが、自分の精神的な不安の要因として大きい気がしてきました。この想いだけ見ると集団に紛れてやり過ごしているのが好きそうな人に見えるだろうけど、実際は逆。群れるのは嫌いだし、一人で過ごす時間も長い。でも、どちらも自分自身の姿だと思う。

そんな葛藤を、整理してみます。

 

置いていかれるのが怖いのは、小さい頃のある気づきがきっかけ?

私が持っている「置いていかれる恐れ」を具体的に挙げてみると、例えば、「友達はみんな前に進んでいろんな仕事や旅をしているのに、私は何もしてない」という焦りや不安。

小さい頃、家族3人や母と2人で街を歩いている時に、母は人混みの中でも一人でスタスタ進んで、後ろについてきていない私を振り返って待ってくれなかったことに、昔も今も憤りがある。いまだに、そんな母の背中も、ぼんやり覚えている。

そんな恐れが私の心に巣食ったのは、小学校1年生ごろのある気づきがきっかけだったと思い当たりました。それは、他のあらゆる問題にも紐づいている、「親と年齢差のある一人っ子」であるということ。

小学校に入った頃に、同級生の若いお母さんとも出会うようになり、「どうやら私は親と歳が離れている」ということに気づきました。ある友達とは、親同士は同世代だったけど、その子には10歳くらい上の兄弟がいたりして、「仲間だと思ってたのに」とショックを受けたりしていました。

だから、当時の私は「周りよりも、親が死ぬのが早い。お葬式も私がやるかも。だから私はしっかりしなきゃ」と思い、責任感・正義感が生まれました。年齢に関わらず、短命な人も長寿な人も、いるけどね。と、今は思うけれど。マンションのローンを私が払うことになったりするのかと気にしたりもしていました。

そしてこの「親に対する責任感」が、今まで私の軸になってしまっていたということに、つい最近気づきました。「自分らしく歩む道」と「(自分なりに)親のためになる道」が、これまではほぼ一致していたけど、この数年で交わらなくなってしまって、どうしていいのかわからなくなったり、自分の思いを伝えられなかったりしたんだなって。それはどうやら「親を大切にする方法」がずれていたようなのだけど、そのことに気づいたのは最近でした。

「こんなに自分勝手だったのに」とも思うけれど、それは大切にしたいものを大切にできない裏返しで強く自分を責めていたから、そう思ってしまっていました。

そしてさっき気づいたこと。小学1年生頃に生まれた強い正義感の裏で、その分、いやそれ以上に、寂しかったということ。25年の間にねじくれてひん曲がったけれど、当時6歳の私の、「親が早く死んじゃうなんて嫌だ、寂しい」「置いていかないで」「もっと一緒にいたい」「家族みんなで仲良くしたい」というピュアな思いが、今の自分にふと顔を出したような気がしました。

「親がいなくなったら、私は一人置いてかれてしまう」「一緒にいれる時間は短いかもしれない」という寂しさや不安の分、「しっかりしなきゃ」という強迫観念のようなものになっていたのかな。

 

幼稚園の仲良い同級生はほぼ引っ越してしまった寂しさ

そして、「置いていかれる」という感覚のもう一つの原体験。

幼稚園の同級生のうち、一緒に登園するエリアで家も近かった、仲良い同級生たちが、幼稚園卒園から小学4年頃までの間に引っ越していってしまったこと。それは小学校の学区内の遠いエリアの子もいれば、全く違う町に引っ越していく子もいました。

遠く離れてしまっても仲良くし続けられるようなことは、年齢的にもできなかった。そんなことが何回もありながら、自分は変わらないマンション暮らし。自分も引っ越していればこんな感覚にはならなかったと思うけど、見送り続けたから、「置いていかれる」感覚になりました。
 

モノに対する愛着もなかなか強い方だから、気に入っていたものをなくすと悲しくて仕方ない。消しゴムだってペンだって、今も昔も、なくなったら悲しい。まあその分、長く使い続けられるのだけど。鉛筆だって、2cmくらいになるまで使い倒していたほど。

だから、大切にしている人について募る思いは、きっと人一倍あるのだと思う。

 

離れていく寂しさで傷つく前に、傷つけてしまう

そんな寂しさ・悲しさを味わってきたから、それで心が締め付けられる前に、「ここまで言っても離れないよね??」「このくらい言っても良い関係だよね?」という思いで皮肉やら悪口やらを言う「試し行為」もしてしまいがち。昔も、最近も。小学3年くらいでクラスで仲良くなった子に、「嫌い」と面と向かって言い放ったのも覚えています。

内心、離れて欲しくないからそう言う切実な寂しさがあるのに、表面上はただのキツイこと言う奴になっていて。しかも、気を許せる相手にリラックス状態で無意識的に言ってしまうから厄介。私としては、「気を許している証拠」なのです。だけど、その思いはほぼ伝わらない。

相手の表情や反応を見てようやく「ん?言いすぎた?」と気づいたら、「そんなつもりじゃなかったのに」と、“どうやら相手を傷つけたらしい”ということに傷つく私。だって、私が皮肉・文句・悪口を言うくらい大切な人だから。その相手の反応を逐一覚えているくらい、罪悪感はあって。全然、表の自分と内心が一致させられない。

 

こういう時の私としては、皮肉の効いた冗談くらいのつもりなので、「またまた〜」とかわして欲しいのだけど、表面的には本気で言っているように見えるだろうから、それが成立したことは基本ない。

 

その結果大切な人が離れていくとしたら、「ほら、やっぱり」ってなる。寂しい思いを最低限に抑えて、自分を守ったことになる。でも内心は、とても寂しい。

逆に、もしそれでも離れないでいてくれたら(そうだったことはほぼない訳だけど)、多分言葉の鋭さや行動がエスカレートするだけ。

これってどうすればいいのかな〜。私は試しちゃうんだって、大切な人に伝えていくことが必要なのかな。自分のやり方をどうしたらいいかは、わからない。

そして、こういう時に出るきつい言葉は、自分にも同じように日々浴びせている言葉でもあるんだと思う。自分も相手も、傷つけている。

 

置いていかれるより、自分から離れる方がまし

置いていかれる、つまり「自分は望んでいないのに離れていってしまう寂しさ」は、「自分から離れる寂しさ」よりはまし。だから、大切で尊敬している人や場所ほど、自分から距離をとることも多い。最近どうしてるかなって思う友人はそれなりにいるけど、自分から連絡を取ろうとは思えないことがよくある。仲良くしようとすると傷つけてしまうことがあるのもわかってるから。大切だからこそ、近づけない、と思う

でもそれはやっぱり、寂しいことには変わりない。表面と内心が一致していないから、もやもや感も伴うことになる。

 

一人にしかなれない

だから、一人で行動するのも好きな私だけど、その理由の一つは、「一人にしかなれないから」。

3年前乗ったピースボートでも、いろんな人と部屋でもわいわいすることに憧れもありつつ、4人での相部屋生活は一人の時間がなさすぎて、誰かが部屋で話していると「うるせぇ」と思ってしまったり、部屋に一人になっても誰がいつ入ってくるかわからなくて怯えたり。「みんなと居たいのに居れない自分自身」にショックを受けた。

 

近づきすぎても傷つけるし、離れすぎたら寂しいだけだし。人とのちょうどいい距離感が掴めないまま、歳を重ねてしまったんだなあと、思う。幼少の頃からの私の、生きづらい点はうまく手放したい今日この頃です。