ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

Time is more than money.

お金が嫌い。

この数年いちばん苦しめられているのは「お金」かもしれない。嫌悪感を覚える。

幼い頃から値段を気にしてものを選んでいた

私は幼い頃から、気づいたらものの値段を気にして、できるだけ安いものを選んでいた。いちばんよくある例は、レストランで何を頼むか。ざっとメニューに目を通す→いちばん安いものを見る、というのが基本の流れ。どうしてもそれが嫌だったり、その場にそぐわないものだったら、2番目に安いものや価格帯が同じものを見てみる。小学校低学年の頃にはしていた、この節約&選択肢を減らす方法は、今でもやっている。

「私なんぞにお金をかけさせてはいけない」という意識が、昔からあるように思う。親より高いものをレストランで頼むのは気が引けていたし、その罪悪感から逃れたくて私はいちばん安いものをまず選ぶようになっていたんだろう。

だからか、昨夏ピースボートに乗船し、1日3食が船賃に含まれている状態におかれたとき、私は面食らった。船で食事にありつけるのは、朝夕は2カ所、昼は3カ所。選択肢が3つ以内なだけ助かったが、それでも、「値段を基準に選ばない」というのは新鮮で、ときに大変だった。

 

「金食い虫だ」という罪悪感

小学生の頃から高校にかけて、いろんな習い事に手をだした。水泳、絵画教室、ピアノ、テニス、塾。このうち、本当に好きで続けられたと思えるのは、絵画教室(小学校高学年)だけ。塾も、大学受験で本気になった高校3年のときだけは頑張れた。だけどほかはどれも苦痛で仕方なかった。今となっては、なぜ嫌なのに続けたのだろう、と疑問に思う。

嫌でも続けた心理の裏には、小学生の頃抱いた「習い事というもの」への憧れがあったなあ、と振り返る。小学校の最後のクラスでは、中学受験をする人が10人以上いるような環境だったし、多くのクラスメイトが何かしら習い事をしていて、「今日は○○だから」と言って帰っていくみんなを「大人だなあ、かっこいいなあ」というふうに見ていたような気がする。だから、私も「大人」になりたかったのだ。

だけど、嫌なものは嫌、なもので、嫌だったどの習い事も、体調不良を装ったり(というか本当に嫌だと体もだるくなったりする)して休むことも多々あった。そうすると、特に塾なんかだと、家に電話がかかってくる。昔から電話が嫌いな私は、それでもっと嫌になった。電話がなるたびに「塾かな」と怯えたり、逆に休むと言って親に電話してもらったときは申し訳なさでつぶれそうだった。そもそも、母も気づいてか気づかずか休むのを何も言わず許してくれていて、またそれが逆に罪悪感を増幅させた。

わざわざお金を出してやらせてもらっているのにできない、私は金食い虫だ、という罪悪感や情けなさはとんでもないもので、お金を出してもらっている対象は変わった今でも同じことを思って毎日罪悪感につぶされかけている。

子どもというのは、親の会話を意外と聞いているもので、高校生のとき私が「ディズニー行ってくる、お小遣いちょうだい」と親に伝えたあとリビングを後にしたら、母が「誰が出すのよ〜」と嫌そうな調子で父に言っているのが聞こえた。こんなことを今でも覚えていて、そして今でも当時のように胸が痛んでしまう。それは今でも「金食い虫だ」という意識が変わらずあるからだろう。

 

お金のためには頑張れない。

大学に入ってからは特に、周囲はバイトをしてそれをお小遣いにしていて、「ふーみんバイトしなよ」と何度も言われた。お小遣いをもらうことは当たり前ではないのだと気づき、親からのお小遣いをあてにするのは悪なのだ、とその頃刷り込まれた。まあその刷り込みがなかったとしても、大学生になって活動範囲が広がると、今までの比でなく毎日お金がかかるし、自分の活動費を自分で賄いたいと思っていた。

しかしそうは思っても、飲食店のバイトを何個か受けてみても撃沈し、派遣の単発バイトで1日中働いて翌日を疲れでだめにしたり、パソコン作業のバイトをご縁でもらっても、ちょっと遅刻するという罪悪感から仕事全部を放棄したり、自分が思い描いていた内容と違い、やる理由を見出せなくなってフェードアウトしたりと、バイト歴についてはなかなか散々だった。お金を稼ぐという営みも、そういうことをしてしまう自分も本当に嫌になった。

私は、お金のためと割り切って働き続けることが本当にできない。そして、たとえ働く環境や仕事内容が面白くても、すぐ飽きる。バイトというのは全体のうちの末端を任されることが多いだろうから、「これ何のためにやってるんだろう」と、すぐ全体が見えなくなって、「私がやらなくてもいい気がする」と思った瞬間、風船の空気が抜けるようにモチベーションがなくなる。

https://www.instagram.com/p/BP17y0rFN9e/

(↑お金が集まり、散っていく場所、東京。とあるバイト終わりに。)

 

そもそも、なぜ、お金が必要なのか。

高校生の頃から「資本主義」なるものとの付き合い方を漠然と考え続けている。何か新しい、資本主義に変わるものがそろそろ現れるのではないかと、世界史や国語の授業中考えたりもしていた。

特に都市部では、食べ物も全てお金を介して買わなければ足りないし、地域コミュニティが希薄であげる・もらうの関係性も築けないようであれば、本当に頼れるのはお金だけだ。でも身の回りにあるものたちは本当に、お金を介さねば得られなかったのだろうか?作ったり、もらったりすることはできなかったのだろうか?

そんな疑問を晴らすべく、私は日本の田舎に興味を持って、首を突っ込むようになった。雪深い新潟で集落の住民の方の家に泊まったときには、自家製のりんごジャムや餅をもらった。島根の中国山地のなかごろで過ごした1ヶ月間、野菜は差し入れや農作業の手伝いのときにもらい続け、ほとんど買わずに済んでしまった。お金を介さず、地域のコミュニティのおかげで、生きる糧をいただいた。こんなことができる田舎は、真に豊かだと確信した。

田舎の豊かさに心躍らせるようになってからは、都市部で暮らす自分が虚しくも思える。お金がなければ生きていけないこの状況。何をするにもお金がかかる。私はただ、日々を紡ぎたいだけなのに。日々を紡ぐのにも、お金と、それにともなう罪悪感が押し寄せてきて私を飲み込む。

 

お金=信用、なのだとしたら。

ああ、お金嫌いだ、なぜ生まれ落ちた瞬間資本主義の世界に放り込まれねばならないんだ、とふてくされながらも、登録してある派遣バイトの仕事情報を見つめる日々。そんな中、同い年・同大学出身のブロガーやぎくんがこんな記事を書いているのを見つけた。

www.jimpei.net

「お金の不安から逃れたい人」、私が抱えているお金に対するもやもやは、不安だけではないが不安でないとは言えない。何より、サムネイルに出ているマンガの台詞が引っかかって、クリックした。

お金はいつも正しい (双葉文庫)

お金はいつも正しい (双葉文庫)

 

堀江氏のこの本の一部ということだが、どきっとした。

 

「お金は『信用』なんだよ」

去年から、特にピースボートに乗ってからというもの、このブログでも何度も言及しているように「信じること」について考え続けていた私は、「ここでも信じるということが絡んでくるのか、、」と閉口した。それと同時に、「信じることに難がある私が、お金について理解できないのは当然かもしれない」と思った。

 

Time is more than money.

それと同時に、よぎった言葉がこれだ。「Time is money(時は金なり)」ということわざはよく知られているけれど、これは「時はお金より大切だ」というような意味になる。

今のところ私が唯一気持ちよくバイトができると思えた職場の社員さんの言葉だ。「Time is moneyちゃうで。Time is more than moneyやからな」と、お昼ご飯に出かけた飲茶料理屋さんで、いつもなんだかんだ楽しそうに働くその人から発されたその言葉は、聞いた瞬間わくわくしたし、そう思いたくなった。いや、私はそう思っているからこそ、お金のためと割り切った時間の使い方はできないのだ、ということを見事に一言で表してくれたのかもしれない。

「やから、やりたいことに必要なお金貯めるためにアルバイトに時間突っ込むより、親に潔くお金借りて今やりたいことやったほうが絶対ええよ」みたいな言葉が、後に続いた。正直、私はそれを信じたいのかもしれない。