ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

夢見た日々。イスラエル・ヨルダン編【私と中東③】

▼この記事の続きです。mizukifukui.hatenablog.com

 

長かったイスラエル滞在。

あっと言う間のトルコ滞在を終え、イスタンブールからイスラエルのテルアビブへ。まず、イスタンブールの空港で搭乗を待っているときに驚くことがあった。周りの男性の多くが、頭に直径15cmくらいの丸い布をつけている。ユダヤ教徒の男性がつける「キッパ」だった。そんなものがあるとは全く知らなかった私は、ひどく困惑した。

テルアビブに着き、緊張の入国審査。別室に連行されるなどもよくあるということで、ひっかかることも予想されたが、「No stamp」と言うのも忘れずイスラエルの入国スタンプがあると入れないアラブの国があると言われるため)無事に入国できた。ただ、アラブの国のビザがあったりすると面倒なようで、事前にヨルダンビザを取得していたメンバーがひっかかったような記憶がある。

エジプト渡航中止の影響で、他の国と比べれば長らく滞在したイスラエル。10日間のほとんどをエルサレムで過ごした。いろんなところに金属探知機があり、大きな銃を持った軍人も町を歩き、町並みは西洋風で。ユダヤ教の超正統派と呼ばれる人たち(真夏でも黒い帽子や長い上着を着ている)も、欧米にもいるような”普通”の服装の人たちもいる。また、いろんな出自の人がいる。ロシアから移住してきたという学生もいたし、東欧にルーツのある学生もいた。

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バス停でバスを待つ人たち。いろんな服装の人がいる。

初めてゲイの友人ができたのもイスラエルだった。交流したメンバーの中にゲイの人がいて、日本語で明確に「彼氏」と言っていたのでわかった。他の日本メンバーの子によると、彼が「彼氏」というのを「彼女でしょ?」と聞いたら「彼氏」と言っていた、とも。

イスラエルに入った翌日、イスラエルの学生たちとエルサレムを散策した。要塞のように壁に囲まれた旧市街に入り少し歩くと、世界史の資料集で何度も見た景色が目に入ってきた。ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」、キリスト教の聖地「聖墳墓教会」、イスラームの聖地「岩のドーム」。「ついに来たんだ」と実感してぞくぞくした。そしてこれ見よがしに、嘆きの壁の前にイスラエル国旗が揺れているのが皮肉に思えた。

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エルサレム旧市街。ユダヤ教キリスト教イスラームの聖地。

また、これは他の国にも言えることだが、普通に観光で行っても体験できないようなこともあった。ユダヤ教超正統派が集住する地区(街の写真を撮るのもタブーで、部外者が歩くことも少ない)に足を踏み入れたこと。シャバットというユダヤ教安息日に、エルサレム交通機関がストップすることを体験したり、正統派の子の家で儀式的なことを行ったということ。どれも新鮮で、またとない経験だった。

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安息日の伝統的な食事。白い布の下にはパンがある。

 

イスラエル人は議論好き」?

イスラエルでいちばん印象的だったのは、ホームステイでお世話になった子のことだ。彼女が住む大学の寮の部屋に泊まったのだが、まず彼女は「ビーガン」だった。卵なども含め、動物性のものを食べずに暮らしている。私たちのためには卵も調理してくれたが。

そして彼女は、政治的議論がかなり好きな人だった。初対面から30分後くらいで、部屋で軍の話などを聞かされていた。知識や英語力の不足と、疲れとで、こちらは全く口を挟めないままなのに、それも構わず数十分熱っぽく話し続けた。初対面で、明らかに疲れている人(私は聞きながら寝かけていた)に対して、どうしてこんな話ができるんだろう、と理解に苦しみ、ショックを受けた。その話の中でいちばんひっかかったのが、「イスラエルは敵に囲まれている」という話と「攻撃は最大の守り」という言葉だ。日本ではなかなか出逢えない論調に驚いた。

イスラエル人は議論好き」というのは一般的に言われているが、他のイスラエル人の家に泊まったメンバーは「そんな話はしなかった」と言うから、彼女がかなり特殊だったのかもしれない。後日彼女の実家に遊びに行ったときは、お父さんともそういう話をしたから、そういう家庭なのだろう。

 

ホロコーストイスラエル

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ヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)の一部、ホロコースト歴史博物館を訪ねた。

ホロコーストについても、イスラエル人学生にとっては親族が被害にあったという人が多く、身近に感じているらしかった。しかし、そのようなことを二度と繰り返さないように、と言う一方で、イスラエルは古代の王国の存在を根拠に、それまで数百年と住んできたパレスチナ地域の人を暴力的に追い出し、住居や畑を破壊して入植地を作り、領土を拡大している。なぜ前者の暴力は許さず、後者は許されるのか?どうしたらその暴力を正当化することになるのか?何も知らないだけなのか?そもそも紀元前の王国を建国の根拠にするのは強引すぎないか? 疑問や腹立たしさが湧き上がったし、今も思い出すと腹が立つ。

もちろん、「これは完全にユダヤ人がおかしい」という話ではなくて、差別されてきた歴史や色んな地域に離散して暮らしてきた歴史があってのことだ。だからそんな歴史に腹が立ったとも言えるかもしれない。

前述の子によれば、「ホロコーストのようなときのためにも、イスラエルユダヤ人のシェルターとして必要だ」ということらしいが、イスラエルのねじ曲がった二面性を肌で感じた。 

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なんでもない住宅街を見下ろす。後になって、ここも奪い取った土地だったかもしれないと思い始めて、複雑な気持ちになった。

いちばん、「楽しいだけではなかった」と言えるイスラエルだが、それでも、いやその分行ってよかったと思う。

 

久々のアラブ、ヨルダン。

イスラエルから隣国のヨルダンへは、陸路で越境した。エルサレム市街地から国境までのルートを用意周到に調べていてくれたメンバーについて、早朝、エルサレムの中でもアラブ色の強い地区からヨルダン国境まで行く乗り合いタクシーに乗った。すっきりした町並みが多いエルサレムながら、その地区はゴミが多く落ちていたりごちゃっとした雰囲気で、緊張した。

延々砂漠を行き、入国管理の施設にたどり着き、無事ヨルダン入り。タクシーに乗り(9人で5人乗りの2台に乗って、私のほうは後ろに4人でぎゅうぎゅうになって座ったのを覚えている)、アンマンへ。道路の車線があるようでない、マリオカートのように間を縫って進む車を楽しんだ。

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アンマンの、比較的きれいな地区の車道沿い。
 
自分事としての、イスラエルパレスチナ問題

そういえば、ヨルダンには、パレスチナ人が多く住む。交流した人たちの中にも、親はパレスチナ出身で、家ではパレスチナ方言アラビア語の口語は地域ごとに方言がある)で話すというような人もいた。イスラエルともアラブ諸国とも交流するということは、偏見やイメージで判断せずどちらの言い分も直接聞けるという良さもありつつ、どちらも知った上でのもどかしさや憤りも抱えることになる。

そもそも、アラブ諸国やトルコでできた友人にイスラエルの話をすること自体ためらわれる。内戦前まで交流があったシリアでは、「イスラエル」と電話で言っただけで捕まる、というような話を先輩から聞いた。イスラエルに行くということやイスラエル人と交流するということを、他の中東諸国の友人にどこまで伝えるのか。各国でできた友人と繋がっているFacebook上に、イスラエルの写真をどれだけあげていいものか。皆で悩んだし正解もないから、今も思い出すと悶々と考えてしまう。

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アンマンの住宅街。
 
人懐っこさと笑顔にいやされた

イスラエル10日間からのヨルダンは、とても開放的な気持ちだった。なんだかんだで、イスラエルでは気が詰まっていたし、終盤は「はやくアラブに行きたい」と皆が思っていた。交流相手となる、日本語を勉強しているヨルダン人たちと会ったときは、その人懐っこさや笑顔に心底いやされた。

1泊家に泊めてもらった家の子は、ヨルダン人のお父さんとロシア人のお母さん、という家だった。ロシア語とアラビア語を当たり前のようにどちらも操る彼女に驚いた。そして家の庭でバーベキューをし、しょうもない写真を撮ったりいたずらをし合ったり、彼女が無免許ながら近所で車を運転しぎゃーぎゃー騒いだり。なんでもない大学生の日常という感じがとても嬉しかった。

4日ほどの短い滞在で、最後皆と別れるときは、クールに見えたその子がプレゼントをくれた。渡し方も、いつの間にか私のかばんに袋を入れていた、という。プレゼントをくれたということだけで胸がいっぱいになるほど嬉しくて、泣いて抱き合った。

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これはまた他の子がくれたプレゼント。

ヨルダンの皆と別れ、ドバイと北京経由で帰国。経由地の空港で、彼女がFacebook経由で私たちにメッセージをくれていることに気づいた。私たちとの出逢いがどんなに嬉しかったかということや、こちらのメンバー一人一人をよく観察したコメントなど、多分ワードにしたら1枚分はある、とても長い文章だった。それだけこちらを想ってくれていることが嬉しくて、何度も読み返しては泣いた。

 

〜〜つづく〜〜