ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

役割がある喜びと、役割を超えた存在価値、どちらも必要で大切。映画「天気の子」で考えたこと【感想録②】

前回の記事に続いて、映画「天気の子」を見て考えたことを。今回は主人公・陽菜のあり方の変化から考えたこと。あらすじ等のネタバレありです。


映画『天気の子』予報②

この記事の続きです↓
mizukifukui.hatenablog.com

  

陽菜の「自分の役割」の考え方

自分が願えば、雨の中でも晴れ間を作り出せる能力を授かった陽菜(ひな)。作品の中で変わりゆく、陽菜が置かれた状況と「自分の役割」の変化に、共感したり、考えさせられたりしたことがありました。

 

みんなそれぞれに、活かせることがある。

自分の能力に気づきながらも、それを使うことを考えていなかった陽菜。でも帆高が、「仕事にしてみよう」と言ってくれ、依頼した人たちがとても喜んでくれることで、「晴れるだけでこんなに喜んでくれる人がいるんだ」と気づきます。そして自分の能力を人のために使う喜びを知り、こんな役割を与えてくれた帆高に感謝します。

こんな物語と陽菜の気づきは、私が普段から思っている「みんなそれぞれに、活かせることがある。役割がある」という考えと近いものを感じ、とても共感しました。

子どもの頃、親のお手伝いがしたくてたまらなかったこと。習い事に憧れて、家で宿題をするときに母を先生に見立てて塾ごっこをしたり、本当は嫌な内容なのに、習い事を続けようと内心無理をしたり。そしてここ数年の間でも、私が家で暇していて、手伝うことがあるならするのに、母は食料品を一人で買いに行き重いものは配達を頼んでいて、頼ってくれない無力感を覚えてしまったり。

これって全部、「役割が欲しかった」ということに集約されるんです。行くべき場所や役割・仕事って、嫌なもの・足かせのように思われがちだけど、自分から望んだものなら人としての喜びに直結するものなんだよな、と最近考えています。

そんなことを、ちょうど私が通っていた幼稚園の園長先生が遺した著作で読み、とても共感していたのです。少し長いですが引用します。

「お手伝いしようか」 と子どもから話しかけられた経験のない親はまずないと思います。しかし、年齢が大きくな って、小学校も四、五年生ぐらいになると、子どもから、そのような言葉はなかなか聞けなくなってきます。年々その傾向は低年齢化し、子どもの生活のなかに占める「お手伝い」の場、 体を動かして働く場が少なくなっていることは事実です。
お手伝いも含め、仕事(働くこと)への興味・関心は、子どもたちのなかから急速に消えかけているといえます。
しかし、条件さえ整えば、子どもたちは、労をいとわず、自ら仕事を発見し、仕事に取り組んでいきます。(p143)

幼い子どもたちは、その自発性に依拠する限り、働くことが実に大好きです。子どもたちは、遊びとともに、仕事を通して、自分たちの生活を自分たちの智恵と力で築いていこうとし ているのです。
したがって、幼稚園・保育園で、そして家庭でも、子どもたちに、そのような機会を与える ことが、子どもたちの未来に大きな意味をもつようになります。毎日の生活が便利になり、わたしたち大人でさえ“働く”という実感がもちにくくなっている今日だからこそ、わたしは、あえて、そのことを訴えたいのです。(p145)

『子どもに学ぶ子育て論 ー豊かな人間性を育むためにー』安部富士男著, 1981

小さな子どもたちでさえ、自然に、誰に言われるでもなく、仕事を見つけやろうとするってことは、“仕事”や“役割”は人間の本質であり、人間を人間たらしめているものなんだと思います。頼られる嬉しさや、自分が人の助けになれた喜び。互いに頼り合い、人ができないことをする。それを基にした役割が各々にあるから「社会」がある。

こんなことをちょうど考えていたから、陽菜が「自分の役割を見つけて嬉しかった」ということに、共感したんです。

 

「自分の役割」を重んじるあまり、自分のことを置き去りにしてしまう

しかし物語の後半では、陽菜は「自分がいなくなれば東京は晴れる」という状況に置かれてしまいます。帆高にそれとなく「晴れてほしい?」と聞いたら「うん」と言われてしまったのも相まって、陽菜は「晴れてほしい」「自分がいなくなれば」と思いつめていきます。

この場面、陽菜の気持ちがとてもわかって、帆高が「うん」と言った瞬間、きっと陽菜と一緒に胸が痛くなった。こういう些細なやりとりで、道を断たれたように思いつめてしまうんですよね。私も似た経験があるので心底共感しました。そして、こういう小さく見える心の傷が重なって、心を痛めていく人がたくさんいるのが、今の日本。「察する」ことばかり重んじられて、過敏にならざるを得ない人間関係や社会。

「晴れるだけでこんなに喜んでくれる」という気づきや喜びがあったからこそ、その役割が果たせなくなった瞬間、自分の存在意義がなくなったように感じてしまう。自分はいない方がいいと思ってしまう。本当はどんな状態であれ、自分の思いや心・存在の方が大切なはずなのに。

私もずっと、「存在意義のなさ」「必要とされない悲しさ」を感じてきたから、こういう考え方にとらわれてきたことに気づきつつあります。これって、「働かざるもの食うべからず」的考え方や、肩書きを持つことを重視する日本社会の弊害ではないでしょうか。そしてこれは先ほど書いた「みんなに役割がある」という考え方を裏返した結果でもあり、社会の厳しさでもあるのかも、と感じました。

 

役割を超えた「自身」をまるごと受け入れる

でも、そこをひっくり返すような物語の展開。帆高は「ずっと雨でいい」「晴れより陽菜がいい」と、天空へ行ってしまった陽菜の元へ向かい、2人で地上に戻ってきます。

何をおいても一緒にいたいという強い深い愛を感じたのと同時に、役割にとらわれないありのままの自分・他者を受け入れる深い愛にとても感動しました。後半は随所で泣けたけど、一番泣けた場面でした。

そして東京の在り方(地形や気候)を変え、何千万人の生活を変えることになっても、陽菜の命・存在を優先するということに、「一人の存在って、それだけ大切なんだよ」というメッセージを強く感じました。

陽菜が生きることで気候変動が起きてしまっても、周囲の人間はその環境の変化に対応して生きていく。集団のための自己犠牲がいまだに良しとされがちな日本社会で、自分を優先したとしても「(周りの)人間って意外とタフだから大丈夫」というメッセージも感じ、力をもらったような気がします。

 

役割がある喜びと、役割を超えた存在価値、どちらも必要で大切。

だから、役割がある喜びって本来は「+α」なもので、「生きているだけで価値がある」「生きているだけで素晴らしい」「あなたは大切な存在だよ」という絶対的な価値・信頼の基盤があってこそ成立する。役割にとらわれた価値だけ、絶対的存在価値だけ感じていても、精神的に脆い。人間にとって、どっちも必要なことなんでしょう。

「役割を超えた存在価値」に関して、以前ピースボートで出会ったあるおばあちゃんの言葉を思い出しました。前にも書いたことがあるので引用します。↓

病に倒れてから半身麻痺ながらも、タフでポジティブで、若者とも分け隔てなく話してくれるおばあちゃんがいた。シンガポールでの下船前、みんなと別れを惜しんでいるときに、「おばあちゃんっていうのはね、孫が生きてるってだけで嬉しいのよ」と話してくれた。もうそれだけで、全てが肯定された気がした。

自分の直感と可能性を信じたくて、私はピースボートに乗った。 - ふーみんLABO(仮)

実際の家族・親族では近すぎて伝えづらいかもしれないけど、きっとこの言葉は普遍的な思いだと、誰かから自分に向けられてもいると、信じています。

自己否定も他者否定も、どちらもはびこる今の社会。たくさんの人が、自分や他者に刃先を向けてしまってる。だけど、自分のことも他者のことも等しく、比較することなく絶対的に大切に思える人間関係や環境を作りたい。自分を肯定するために他者を否定する必要はないし、他者を肯定したからといって自分を否定しなくてもいい。そんなことを改めて考えさせてくれました。

私はこんなことを感じたけれど、他の人が見たらまた全く違う視点や理解があるでしょう。それだけ深みを感じる作品で、「見て良かったな」と改めて思います。ぜひ映画館でやっているうちに見てほしい、そしていろんな人と感想を語らいたい作品です。
mizukifukui.hatenablog.com

Special Thanks

この記事で書いた私の気づきは、友人のこのブログを読んで、「そういえばこんなこと思ってた!」と改めて気づいて形になったものでした。紹介しておきます。

minirezo.hatenablog.com