ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

なかなか謝れなくなったのは、「私だって傷ついた」という心の声が聞こえるから、かも。

今の自分の悩みの一つが、「謝れない」ということ。すぐ謝ってしまえば楽だったのに、と思うことばかり。それでも謝れない理由を、最近少しずつ解剖しています。それで思い当たった理由の一つを、書いてみます。

  

私だって、傷ついてたの。

私はあらゆることに罪悪感を強く感じてしまうから、「自分はひどい」と思う気持ちが大きすぎて、謝れないというのも一因です(これについてはまた今度)

でも一方で、私が罪悪感を抱くような出来事を起こす前に、少しでも「大切にされてない」と私が思ってしまうような出来事があったことによって、「悪いのは私だけじゃない」「私だって言い分はある」と思っている節もある。そんなことを、最近自覚しつつあります。

私が発表してたのに寝てたじゃん、とか、すぐ連絡くれなくて不安だった、とか。ここでもやっぱり、「放置されるのに弱い」私が出ている。前書いた「置いていかれる不安」とほぼ一緒というか、同根というか。いわゆる「インナーチャイルド」がいる感覚。本当に子どものように、「かまって!」「私を見て!」という声が、自分の心のどこかから聞こえる気がする。

「必要とされてない」「大切にされていない」ということに“気づいて”しまうと、すぐ心のシャッターを閉ざしてしまう私。そういうことがあると自分からアプローチする気力も失ってしまうから、私は一方的に傷ついた気がして離れていき、そして相手としては何が起きたのかわからないような状態で、疎遠になったり、話せなくなったりしちゃう。

こういう心の動きが生まれた原体験の一つとして、思い当たることもあります。

小学2,3年生頃、クラスの友達と放課後遊ぶ約束をして、友達が「うちに帰って、うちで遊んでいいか聞いてから電話するね」ということになり、私は家で電話を待っていました。しかし待てども待てども、かかってこない。その子の家は学校から少し遠いといえども、もう帰った頃。

当時も今も、電話をかけるのは苦手。特に、ケータイも普及していない当時に家の電話にかけるのは、誰が出るかわからない緊張もあって本当に嫌でした。だから自分から電話するのも嫌だけど、これからどうすればいいかわからないのも不安。

母に泣きつきながら、何を言えばいいか確か手元にメモまで書いて、勇気を出して電話したら、約束を忘れられていたという。それで、結局なんとか、母と一緒にその子の家には行ったようなことまでは覚えています。

でも、そのまま遊んで一件落着〜!とはならなかったんだと思う。遊ぶ気分になれなくて。だからいまだに覚えているんだろう。

この時受けたショックや悲しさが癒されないまま残っているから、そのショックをまた味わわないように、「どうせ私のことなんて覚えてない」「忘れられて当然の私」といつも前もって心積もりをしてしまう。自分も相手も、信頼していない。だから、本当は親密になりたくても、「忘れられてるかも」「私のことなんてどうでもいいはず」と思って、連絡するのをやめたりしてしまうことが多い。

でも同時に、連絡できない自分への自己嫌悪や、仲良くしたい思いが達成されないフラストレーションも溜まる。そして実際、多くの場合はそのまま疎遠になってしまって、また悲しくなる。「やっぱり忘れられてた」と、自分に対する自己卑下を実現させてしまう。そんな葛藤を、中学生くらいからずっと、何かしら・誰かしらに対して抱えています。

こんな状況だから、「今度ご飯行こうね〜」「今度連絡する〜」というやりとりにめっぽう弱い。言われた瞬間に起こる心の動きは

  • 「そんなこと言って、忘れるくせに」と思う
  • 「真に受けたら傷つくぞ」とバリアを張って受け流す
  • 「相手は忘れるかもしれないけど、私は覚えてるから連絡しなきゃ」と思うけれど、すぐ連絡しても前のめりすぎるかもしれないし、とか考えてタイミングを見計らうのがストレス→先延ばし・なかったことにする→罪悪感

という感じで、大抵の場合傷つく結果に終わる。自分も相手も大切にできるコミュニケーションが、なかなかできません。

 

「心の傷」に由来する、私の過敏性

こんな風に、簡単に傷ついた気持ちになって心のシャッターを閉ざしてしまうことは、前から思っている「過敏性」が原因かなと思っています。

以前もブログで書いた、「HSP(Highly Sensitive Person, 敏感すぎる人)」について。 

mizukifukui.hatenablog.com

これをより詳しく理解するため、昨年末にこの本を手に取りました。

過敏で傷つきやすい人たち (幻冬舎新書)

過敏で傷つきやすい人たち (幻冬舎新書)

 

こちらの本では、「過敏性とは何か」ということから、過敏性への適応や克服の方法についてまで網羅的に紹介されています。

また、8つのセクションに分かれたチェックリストがあり、どんな過敏性を持っているのか分析することができます。それをやってみたところ、私はこんな結果に。

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「心の傷」が満点というなかなかショッキングな結果でした。自分でつけたチェックの結果なので偏りもあるでしょうが、チェックリストという比較的客観的な指標においてもそれだけ「心の傷」があるんだなあと、考えさせられました。そして、「これはもう仕方ない」「一人では解決できない」という、良い意味での諦めや手放しの感覚にも至りました。

そしてそれに関連して、最近あるサイトで見つけた表現に、膝を打つ感覚に。

www.counselingservice.jp

要約すると、

「いつも通りの手のひらをつついても、さほど痛くない。だけど、道で転んで手のひらをアスファルトで擦ってしまい、皮が剥けてしまっている状態で手のひらをつついたとしたら、とっても痛い。
心も似たようなもので、心が傷ついていない時は、多少の刺激ではダメージは少なくて済む。だけど、心が傷ついてて、その傷が癒えていないまま刺激があったら、とっても痛い。」

というもの。

転んで、膝や手のひらに、肌の皮以上に深い傷を負ったことは実際に何度かあるので、その感覚をすごく思い出して(それでちょっと手汗が出るほどにはリアルに痛みを思い出してしまってるのも、過敏性というか。笑)、それと同じことが心で起こってるんだ、と思ったら、ものすごく納得がいった。 

だからきっと、上で書いたような小さい頃のショックな出来事の傷が、治らないままこじらせて、ここまで生きてきたんだなあと思うのです。それによって、簡単に傷ついてしまって、心のシャッターを閉じてしまうんだろうなと。

 

心の声を無視できなくなった。

謝りたい時にすぐ謝っていたら…と思う一方で、きっと今の自分の心の状況だと、もしすぐ謝っていたら相手にも自分の状況にもプラスにはなっていたと思うけれど、心のどこかで傷ついた自分は置いてけぼりになってしまうその傷ついた心の声を無視できなくて、謝れないんだと思う。

というか、今までその声は無視して無理してきたけど、それが限界以上に至った・表れる影響が大きくなったということなのかも。それだけ、まだ手をかける必要がある「インナーチャイルド」がいるのかもしれない。

どうにか少しずつ、癒していきたい。こう自覚しつつある時点で、ちょっとは前進だと思いたい、今日この頃です。