現代アート初心者&予習なしでも楽しめた「あいちトリエンナーレ」。芸術祭はテーマパークなんだ。【感想①】
先週、愛知県で開催されていた「あいちトリエンナーレ2019」(略:あいトリ)に行ってきました。これまでこの手の芸術祭は、存在は知りつつも興味はなく、現代アート全般も特に興味がありませんでした。
そんな私がなぜ今回あいトリに行ってみようと思ったのか、そして何を考えたのか、書いてみたいと思います。
あいちトリエンナーレとは
愛知県で2010年に始まり、3年に1回開催されている芸術祭。今回は8/1〜10/14まで75日間開催されました。国内外のアーティストの作品が名古屋市・豊田市の美術館などに展示される国際現代美術展をはじめとして、音楽プログラムやパフォーミングアーツの公演も行われました。
今回私は名古屋市内の開催地を巡り、展示を見てきました。
興味を持った背景
今回あいトリに興味を持ったのは、「なんか面白そうだから」というような、本当に“漠然とした興味”としか言えない感覚でしたが、興味を持つに至る背景はいくつかあったのかなと思っています。自分の記録のためにもいくつか挙げておきます。
ジャーナリスト津田大介氏が監督
芸術監督を務めるのがジャーナリストの津田大介氏であることが、あいトリを知ったきっかけだったと思います。以前大学で彼の授業を受けたこともあり、活動全般にも興味がありました。ツイッターであいトリ関連のツイート・リツイートをたくさんして盛り上げていたのもあって、「へえ〜」と思っていました。
今回のテーマ「情の時代」に共感したから
「感情」「情報」に翻弄される時代であり、それによって生まれている分断を「情け」で乗り越えることができないか、というメッセージが込められたテーマ。
日常でもこのブログでも、どう付き合っていくべきか、どう発信していくべきか考えている「感情」や「情報」。そのもやもやが「情の時代」という言葉に集約されているような気がして、「ああ、そうだよね」とものすごくしっくりきた。そのテーマの下集まっている芸術がどんなものか、「情の時代」とは何なのか、ちゃんと知りたくなったのです。
韓国・光州で感じた「アートの可能性」
今年7月に行った韓国旅行で訪れた地方都市・光州(クァンジュ)。1980年代には軍事政権に対して“民主化運動”が活発に行われ、その過程で大きな犠牲もあった街です。
そんな光州は、1995年から、2年に1度の芸術祭「光州ビエンナーレ」を開催するなど、アートの街として街おこしをしています。
私が行った時は、現代的・芸術的アプローチで民主化運動の足跡を辿る展示がされていて、記録館の展示を見るのとは違う感覚で当時の雰囲気や出来事を知ることができました。「芸術という手段でこういうことが伝えられるんだな」と、「アートが持つ可能性」を感じました。
「現代アートって全く触れてこなかったけど、面白いかも」「日本でも海外でも、触れる機会があったら触れてみたい」と、これをきっかけに思い始めました。
こんなわけで初・芸術祭としてあいトリに出かけてみました。初心者だし、楽しめるのか、「なんだこれ?」で終わるのかもわからないし、予習しようにもとっかかりすらわからない。「まあ行ってみよう。行けばわかるだろう」というくらいのノリで行きました。
ちなみに、話題になっていた企画展「表現の不自由展・その後」にはなんとなく興味はありつつ、「見れるなら直接見たいけど、見れないなら別に良い」くらいのスタンスでした。展示の再開初日と私が行く日が偶然重なり、一応抽選に参加したものの落選。「表現の不自由展・その後」に関わらずあいトリ全体に関心がありました。
芸術祭の楽しさを知ってしまった
そんなこんなで行ってみたあいトリ。結果、すごく楽しめました。全国各地の芸術祭が話題になったりしていたのも、これまでは良さもわからなかったけど、「こういうことだったのか」と腑に落ちた感覚。
何が楽しかったのか、解剖してみます。
「これは何?」と普段使わない思考・時間を使う
なぜこれがここにあるのか、何を表しているのか、なぜこんなものを作ったのか…ひとつひとつ、考え出すとキリがないくらい、謎も多い展示群。解説を読んで「なるほど」と思うこともあるし、「?」で終わることもある。
普段は漫然と周囲のものを受け入れてしまったり、一瞥してすぐ「よくわからない」と離れてしまうこともある。だけど現代アートとして相対すると、いろんなことを考えさせられる。そんな思考も新鮮だし、その思考に時間を割けるというのも、こんな芸術祭に来ているからであって。今までにない感覚や時間でした。
ハフポストのこの記事で書かれてたこととも近いです。
じーっと立ち止まって、「どういうことなんだろう?」「何を伝えたいんだろう?」と考える時間は思えば普段、あまりない。作品自体の力、圧倒的なスケールや色彩や光の美しさ、どこか伝わってくる作家の怒りや不条理に、感情が動いた。作品作りに影響した社会的な背景とはどういうものだったのか、知りたくなった。
タイミングや回数によって、同じ展示でも見えるものが違う
今回、1日は友人と、1日は1人で行きました。本当は1日で全て見切るつもりだったけど、思いの外時間がかかって見切れず、1DAYパスをフリーパスにアップグレード。そのおかげで、「せっかくフリーパスにしたし」と、1回見た展示を一部もう1回見ることにして、たくさんの発見がありました。
まず、行った日や時間帯が違ったことで、人の多さや雰囲気が全く違いました。人が多かったことで賑やかで楽しげに見えていた展示が、人が少ないと異様さの方が目立ったり。
1日目は「よくわからん」と思ってちゃんと見なかった展示を、時間を割いてじっくり見てみたら、なんとなく自分なりに解釈ができたり。
だから、1回見て終わりでなく、何度でも楽しめる余地を感じ、テーマパークみたいだなと思ったのです。
他の人との対話で違う見方もできる
また、一緒に行った人や居合わせた人の話を聞くことで、また見方が変わったりもするので、それも面白かったです。
今回のあいトリでは、来場者が創造性を発揮できる「アート・プレイグラウンド」という取り組みがあったそう。その一部だった「はなす TALK」という場では、スタッフさん・ボランティアさんがファシリテートしてくれ、居合わせた人たちで感想を話し合えるテーブルがありました。
そこで、偶然居合わせた人の感想や印象的だった展示の話を聞いて、「そんなことを思うんだ」という発見があったり、私がこれから行く場所の話を聞いて「そんな展示があるんだ」と心に留めたり。一人で来てもこういうプログラムがあれば感想をアウトプットすることもできるし、とても良いと思いました。
他の人との対話を通して得た、自分とは違う見方を持ってまた展示を見に行っても楽しいだろうなと思わされました。そしてアートをきっかけにコミュニケーションができるというのも面白かった。
現代アートの“自分も参加できる余地”、双方向性
芸術作品、特に歴史的なものは、往々にして「見る対象」でしかない。見る人と、見られる作品という関係でしかない。だけど現代アートには、その関係性に留まらず、作品に“参加できる余地”があるものもあると感じました。
先ほど写真をあげたピエロの作品は、ピエロの隣でポーズをとって写真を撮ったりすると作品の一部になったようだった。
女性差別やセクハラにあった経験を問う作品では、自分や身の回りの経験を書いておけるようにもなっていた。
「あそぶ」プログラムとしてダンボールの基地みたいなものが作られているところでは、近隣の小学校の子どもたちや来場した子たちがダンボールで遊びながら、結果的に展示が進化していってる。会期中も進化していくその様は、見学ルートに展示された写真や文で垣間見ることができる。
そんな双方向性が、「自分も参加できる」という力や楽しさを感じさせてくれました。「テーマパークみたい」と感じる一因にもなりました。
上記の「はなす」場で話した人の中で「ほぼ毎日来ている」という方がいて、聞いた時は「まじか、なんでそんなに…」と思ったけど、あいトリを2日間見終わった後には、その方の楽しみ方や気持ちも十分に共感できる自分がいました。
旅行を兼ねて行くのも楽しかった一方で、地元でこういう芸術祭があったら何度でも見に来てみたいなとも思いました。
今回で芸術祭の楽しさや楽しみ方がわかったので、今後他の芸術祭にもぜひ行ってみたくなりました。なんだか、好きだと思えることが増えた感じがして、嬉しくもあります。
あいトリで考えたこと、印象に残った展示などはたくさんあったので、また書きたいと思います。
追記:続きを書きました。