あいちトリエンナーレで印象的だった展示6つを振り返る。【感想②】
先週行ってきた芸術祭、あいちトリエンナーレ2019。そこで印象的だった展示と、その感想を残しておきたいと思います。
- 45体のピエロたち:孤独のボキャブラリー
- 無機質な画面に宿る人となり:ラストワーズ/タイプトレース
- 展示そのものより過程がアート…?:抽象・家族
- “人の手が加えられた生命”から発想されたコンテンツたち:1996
- 一つの事故に第三者が真摯に向き合うということ:輝けるこども
- 「軍歌君が代」を歌う台湾のおじいさん:Synchronized Cherry Blossom
前回の記事はこちら▽
45体のピエロたち:孤独のボキャブラリー
ウーゴ・ロンディノーネ(A06) | あいちトリエンナーレ2019
「一人の人間が、人生のとある一日、その24時間で繰り返し行っている家の中での孤独な振る舞い」を示しているそう。そんな作者の狙いを理解できたかはわかりませんが、一番楽しめたし、雰囲気によって見方が変わる面白さも感じさせてくれたので、一番印象に残っています。
先日も書きましたが、ピエロの隣でポーズをとって写真を撮ることで自分も作品の一部になれたような感覚が楽しかったです。
また、人が多い時は賑やかで楽しい雰囲気だったのに、人が少なくてひっそりとしている時は、リアルだけど動かないピエロが広い部屋一面にいる異様さに圧倒される感覚が強く残りました。
あいトリのパンフレット類でもこの作品の写真が使われているので、写真では見ていたけど、実際行ってその場に居てみると感じ方が全然違って、そのギャップの面白さを感じられたことも思い出になりました。
無機質な画面に宿る人となり:ラストワーズ/タイプトレース
dividual inc.(A14) | あいちトリエンナーレ2019
10分間で、タイプする過程も残るソフトを使って書かれた“遺言”たち。インターネットで集めた「10分遺言」を映し出すモニターの展示。
誰か特定の人に向けたような言葉もあれば、「自分」「関わってくれたみんな」「誰か」などに向けたものもある。使う言葉やタイピングのスピードで、年齢層や属性もなんとなくわかるのも不思議でした。無機質な画面が並んでいるからこそ、その言葉やタイピングに込められた思いや人となりを想像しようと思えたのかもしれません。
最後にしたためる言葉たちに宿る思いを見て、いろんな思いが頭や心を通り過ぎて行きました。この人の人生は、満足いくものだったのか。自分だったら誰に何を書くのか。そんな言葉を残して終わるような今、死んでも後悔しないか。
あるきっかけで、年1回遺言を書く(更新する)ということに興味があったので、それも合わさって「遺言書いてみようか」とも思いました。
展示そのものより過程がアート…?:抽象・家族
海外にルーツをもつ4人が、インタビューや抽象画づくりを通して交流していく様子を映した映像を中心とした展示…と私は理解しました。「映画+α」みたいな、立体的な展示かと。
「なんでこれが芸術祭に展示されているのか」「これはアートなのか」という疑問が、1回ちょっと見て素通りした時も、2回目にじっくり見た時も拭えず。私の中では、展示されている絵・モノ・映像そのものよりも、それを作る過程がアートということなのかな?という理解に落ち着きました。
親が外国出身で、周囲に馴染めなかった子ども時代があったり、名前が日本語で海外のルーツが表れていないことでアイデンティティが揺らぐなど、映像の中で話されていることにはとても興味が湧きました。
この作品に登場する1人が、「日本には疎外感がある」と思いつつも、所属感を感じていて半分のルーツがある国に移ろうとはしてこなかったことを指摘され、言葉に窮する、という映像の場面は、うわーと思いました。自己矛盾を突かれた感じ。複雑なアイデンティティ。
相当時間をかけて映像のいろんなパートを回遊しながら見て、やっとなんとなく落とし所が自分の中で掴めた感じがあって、印象に残りました。
“人の手が加えられた生命”から発想されたコンテンツたち:1996
作者自身が「配偶者間人工授精」で生まれたと知ったことから、クローン技術で生まれた羊ドリーのこと、旧優生保護法で強制不妊手術を受けさせられそうになりながらそれを拒否した女性のことを取材し、アートに昇華させた作品。
これは、作品がどうこうというより、発想に圧倒されてしまいました。そんな視点があるのか、こんな繋がり方をするのかと。めちゃくちゃ社会的であり、個人的でもあり。“当事者”が持つパワー。そしてそれを表現する手段としてのアート。
一つの事故に第三者が真摯に向き合うということ:輝けるこども
商店街の小さなビルにある展示でした。実際にあったある交通事故の加害者と被害者に取材を試みながら作られた作品群。
最初行った時はちょうど作者の方が説明をしてくれている時で、話を聞きながらじっくり深く見ることができました。そしてまた行く時間を作って、自分のペースでもう1回見てみました。
加害者となった男性は、てんかんであったが、免許取得・更新時に自己申告をせず、何度も交通事故を起こしていた。だけどその度に、母親が、子をてんかんに産んでしまった自責の念もあって、息子に車を買い与え続けていた。社会的に疎外されて育ったから、大きい車への憧れや、“実力社会”であるクレーン車への憧れがあった。そしてそのクレーン車に乗っているときにてんかん発作が起き、登校中の小学生をひいてしまった。
だから、この事故は、てんかんの人への支援や理解が十分だったら、起こらなかったかもしれない。実際私だって、てんかんって名前は聞くけどどんなものかはほぼ知らなかった。(なのでこれを機に少し調べてみました。↓)
私は普段から、「加害者にも加害行為に至った理由がある」「加害者は、社会やシステムにおける“被害者”かもしれない」というように考えています。加害者=悪だとは決め付けたくない。だから、作品の中でこういうことを紹介する作者の視点にとても共感しました。
そして、事故によって亡くなった子どもたちの日常の足跡をたどる展示も多くあり、どんな子だったのか、どんな日常を送っていたのか、それを語る親の姿をさらに語り継ぐ作者。
時に、自分ごとにするのは辛さを伴う。日々のニュースとして見聞きしているだけの「人ごと感」が辛いこともあるけど。それをここまで作品として、自分として、昇華している作者はすごいなと思いました。亡くなった子どもたちを“生かす”取り組みになっている。
展示の最後にあった、「この詩を伝えたいがための展示」というように作者の方が紹介してくれた詩。事故で亡くなった子どもが自習ノートに残していたこの詩に、圧倒されました。改めて、子どもや大人って、関係ないなあと思わされた。
こうして両者の背景に触れつつも、たくさんの人を殺してきたにも関わらず、便利さを優先して日常的に使われ続けている「クルマ」に着目しています。トヨタのお膝元の芸術祭でこんなメッセージを投げかけていること自体、何か強さを感じました。
数年前免許を取ったとき、運転の練習をしていて「ああ、これで人を殺せてしまうんだな」と怖さを感じたのを思い出しました。そういう意味でも、今は完全にペーパードライバーだけど、車が必要そうな場所に住むとしてもできればバイクが良いと思っています。
でも「自分の体を守る」という点では、バイクより車の方が良いとされがちですよね。どちらにもメリット・デメリットたくさんあるけど。
本当にたくさんのことを想起させられた、力のある作品でした。
ニュースでは被害者や加害者が一通り紹介されるだけ。悲しい事件のようにしか見えないかもしれない。だけど両者の背景にはもっとたくさんのことがあるし、希望を持てることもある。そんな、一つのニュースに真摯に向き合う姿勢は「調査報道」のようで。でもそんなことを、ジャーナリストが記事などにするだけではなく、こうしてアートにして伝えることもできるんだなと、アートの役割や可能性を考えさせられました。
※追記:この作品を紹介する記事を見つけたので貼っておきます。www.sankei.com
「軍歌君が代」を歌う台湾のおじいさん:Synchronized Cherry Blossom
複合的に展示された3つの作品のうち、台湾で日本統治時代に教育を受けて日本語を今でも話せるお年寄りにインタビューした映像「君之代」のあるシーンが印象に残りました。
当時習った日本語の歌を歌えるお年寄りが多く、あるおじいさんがインタビュアーとの会話で「軍歌を色々歌ったよ」「君が代?あー、あの軍歌も歌った」というように話して(どんな会話だったかは曖昧ですが)、立派に君が代を歌う、という映像があり。
「そうか、君が代って“軍歌”だったんだ」と気付かされました。だから、少なくとも、「軍歌の1つと捉えられた歌を今でも国歌にしている」ということなんだな、と。
そもそも国歌としての立ち位置や解釈も長らく曖昧だったようですが(1999年に法制定)、「侵略や戦争を起こしたメンタリティや社会からそう変わっていない」ということを改めて思わされました。
普段考えていることを表出する機会になったり、全く考えてこなかったことにぶち当たったり。あいトリに行った2日間は、いろんな頭を使う、好奇心や知的楽しさをすごく感じた時間となりました。
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