ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

朝井リョウ作品の「後味の悪さ」に、それを生み出すヘドロを持った自分の心が映る。

先日出版された、小説家・朝井リョウの新刊「発注いただきました!」を読みました。

発注いただきました!

発注いただきました!

 

デビュー10周年という記念すべきタイミングもあり、これまで企業などから依頼を受けて執筆した小説やエッセイを、その“発注”内容→作品本体→発注にどう応えたかなどの反省、という構成でそれぞれまとめています。

私はラジオやネットでその構成について知り、「そんなこと書いちゃうの?!w」と発想に心を掴まれ、多分初めて文芸の単行本を買いました。

これまでも彼の作品は何作か読んだことがあるし、ラジオ番組「高橋みなみ朝井リョウ ヨブンのこと」を愛聴しています。彼の話の面白さや着眼点には感心させられていますが、今回久々に作品を読んで、良くも悪くも「こういうとこが嫌なんだよ…」と心底思った(思い出した)ことがあります。それは、「最高に後味が悪い」ということ。

 

「読後感最悪」

数年前に、「何者」を読んだ時もそう思ったのですが、就活というテーマやそこで描かれる人間模様が世代的にも卑近すぎて、読みながらもそうだし、読み終わった後には気持ち悪さやもやもや感が残ったと記憶しています。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

ちなみに、本人もそういうことを書いています。

自分から書き始めるような小説となると、私はなぜか「心地いい読後感」より「心ざわつくような違和感」みたいなものを目指して突っ走りたくなる衝動に駆られる。

『発注いただきました!』p5より

そしてそれを明確に思い出したのが、今作唯一の新作短編「贋作」国民栄誉賞を受賞した若い書道家に贈られる硯を発注した工房の話です。ここで詳しく内容紹介をするのは一応避けておきますが、「バッドエンド」とだけ言っておきます。笑(また後日、この作品についてはネタバレして触れたい。)

読み終わって、「胸糞悪い」という言葉がしっくりきてしまう感覚になりました。「痛快」なら良いけど、そんな「痛気持ちいい」みたいなやさしいものではない。

普段見て見ぬ振りをしたり、蓋をしたり、忘れようとしたりしているけど、なんか嫌だな、変だよな、おかしいよなとうっすら感じているようなこと。それを敢えて言語化して、「こういうこと、あるよね!!」と突きつけてくる。

心のヘドロを溜めておいた袋に刀を刺して、びりっと破れたところから溢れ出してくるものの色の気味の悪さ、異臭。そんなものを感じて、リアルに軽く胸焼けや胃もたれに近いものを感じさせる。

そんな「読後感最悪」な感覚が、「ああ、これだよ…。これが朝井作品…。」と数年ぶりに思わせたのでした。

「読まなきゃよかった」「なんで自分から本を読んでこんな状態にならなきゃいけないんだ」「テーマはまあ良いとしても、終わり方はせめて“痛快”くらいにしてくれ」と、半ば憤りのようなものまで感じました。

 

「闇を指摘する」ということ

ただ、ラジオを愛聴しているのも手伝って、「別に作家本人が嫌いなわけではない」と思うし、作品に引き込まれて一気に読んでしまっているので、作品が嫌い・合わないとか、飽きちゃうとかでもない。「なぜここまで気味が悪いと思う自分がいるのか」「なぜ気味が悪いながらも最後まで読んじゃうのか」という問いも生まれます。

読み終わって、「この感覚は何なんだろう」と考えてふと思ったのは、私は映画にせよ本にせよ社会性を感じるテーマが好きですが、朝井作品には「日本社会の闇・病みたいなもの」を感じるということ。

でもそれは社会構造がどうとか、政治や経済が、という比較的見えやすい・論じやすい点ではなく、「その結果/原因となっている個々人の精神・心・無意識の闇」なのではないかと。

社会にせよ精神にせよ、私がそんな「“闇”を指摘しているもの」に関心を持つというのは変わらないのではないか?と思い当たりました。

しかし、「社会の闇」と「個々人の心の闇」ではその身近さが違います。社会の闇なら、まだ「自分はこう思うけど今の社会では多数派ではない」とか「私だけではどうにもならない」と思う余地があります。

でも、心の闇の指摘が向けられる先はまさに“自分”。読者一人ひとり。小説の物語や登場人物を通して、「あなたにもこういうところあるよね」「自分でも本当はだめだと思いながらやってるでしょ」「こういうの嫌いって思ってるけど表立っては表明できてないよね」と言われてグサッとくるような感覚になります。

だからある意味、「社会の闇」を知っても「自己満足」程度のものにしかなっていないのかも、と逆に思わされました。そして、心の闇を指摘されてダメージを受けるほどに、自分の心には、見て見ぬ振りをしている部分、隠している部分があるんだろうなとも気づかされます。まさに鏡のよう。

 

朝井氏は「明るい根暗」なのではないか

ラジオを聞いて前から思っていたことを、久々に作品を読んでより強く思うようになりました。それは、朝井リョウは「陰湿な陽キャラ」「明るい根暗」とでも言うべき人なのでは」ということ。

学校や、もしくはもしかしたら職場などでも、パッとしない人や目立たない人を陰キャラ」と揶揄する言葉があり、そんな状態にある人はいろんなコミュニティにいます。でもそれって、その人が自分らしい状態でいられないからそうなってしまってるだけで、周囲が作ってしまってるんだと思っています。その人の個性を認めて、ちょうどよく共同体の中に居場所があれば「陰キャラ」状態にはならない。「本当はもっと明るくて素直なのに、陰キャラにならざるを得ない状況」の略が陰キャ、とでも言いましょうか。

こうして、「陰キャラは暗くない説」を掲げている(?)私ですが、朝井氏の話を聞いていると、私の思う「陰キャラ」とは真逆の姿が立ち上がってくるのです。

ダンスやバレーボールが趣味で、一緒にやる仲間がいて、大学でも卒業後も続けている。アイドル好きで、ハロプロやオーディション番組を追っかけ、その話題を熱っぽく話す。作家や他の芸能関係の、先輩後輩や友人もいる。

そんな、それなりに社交的で活発な一面とは裏腹に、「そんなこと気にしてんの?」と思わせられる細かさや気の遣いすぎ・考えすぎな面があり、「身の回りの逮捕された人の話」をラジオで募集して暗い話に嬉々としていたり。

そんなところから、「明るい一面もある。だけど根は陰湿・暗い」って感じがしているのです。その、「逆」な感じや異様な着眼点が面白く、ネガティブで考えすぎなところには共感しちゃう。そこに不思議な人間味を感じているのかもしれません。

 

ラジオでの話ならまだ、面白おかしく聞いていられるのだけど、小説となると「後味の悪さ」はなかなかきついものがあります。コーヒーのように、苦味が逆に美味しく感じるようになったり、読みたくないけど読んじゃう中毒性に、もしかしたら今後至るかもしれないけど、今のところはまだ慣れなさそうです。

 

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