ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

自分の加害性・暴力性を自覚することは、タフだけど必要。ラジオ「ヨブンのこと」で朝井リョウの話を聞いて考えたこと。

愛聴しているラジオ番組高橋みなみ朝井リョウ ヨブンのこと」の5月31日放送分をタイムフリーで聞いていたら、テラスハウスの話に端を発して、人の心や社会について真面目に考えさせられる話が聞こえてきました。

radiko.jp

全然知らなかった世界の話や、立場は違えど共感する話など、個人的にはインプットが多すぎて、感じたことも沢山。その一端を、ちょっと言語化してみようと思います。

 

朝井さんの話の内容

私が話題にしたい部分の話の要約を、何点か挙げておきます。話の発端は、テラスハウスを含めリアリティー番組をよく見ている朝井さんが、テラスハウスに出演していた木村花さんが亡くなった件について触れたことです。

  • 彼女に対する「最後の一滴」は、誹謗中傷の言葉を彼女に届くように書き込んだ人だったかもしれないけど、自分も、彼女の中の泉をつくる一滴にはなっていた。
  • 芸能人が何かするというより、「有名になりたい」とかの欲望を持った、半素人・半芸能人みたいな人が出るリアリティ番組が子どもの頃から好きだった。でも本当は、自分は何を見たかったんだろう。
  • 願いとか欲望とか、むき出しの心をコンテンツにしているものを見るのが好きだった。
  • 本当に刺すし、血が流れるような「デスマッチ」が好き。だけど見慣れてきて、刃物が出てくる場面まで待てなくなったり、刃物が出てきても「前見た感じだな」とか思うようになった。「人が死ぬところを最終的に見ようとするんじゃないか」と自分が怖くなって、この1年くらい見に行ってない。

 

聞いて思ったこと

古代ローマの剣闘士を成立させた考え方の一端を理解

まず思ったのは、私にとっては初耳だった「デスマッチ」の話を聞いて、古代ローマの剣闘士って、こういう思考・趣向の上に成り立ってたんだろうな」ということでした。

コロッセオなどで見世物として、剣と盾を持って闘った剣闘士。手元にあったイタリアのガイドブックの、コロッセオの紹介文によると、

  • 落成時には5000頭もの野獣がいけにえとして捧げられ、剣闘士や猛獣の殺し合いは100日間も続けられた
  • 人と猛獣の死闘や命を懸けての剣闘技が行われ、負けた剣闘士は観客に命乞いをし、観客がその剣闘士の生死を決めることもあった。

「トラベルデイズ イタリア」(2012, 昭文社)  p76より

とのこと。

世界史でも、剣闘士の殺し合いみたいな話は知っていたし「そんなことが行われてたのか…」と思っていました。実際にコロッセオに行った時も、「ここでいろんな人や動物が死んだんだろうな」と思うと、荘厳なような、なんとも重く感じるものがありました。

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2013年3月、イタリア・ローマのコロッセオ

私はホラーとか暴力系の映像は苦手だし、誰かが騙されて悲しい思いをするドッキリとかも、嘘や冗談だとしても見てて辛くなります。体が本当に傷ついたりする様子をエンタメとして観賞するなんて、考えられません。スポーツとしてでも、ボクシングも無理。レスリングとかラグビーくらいまでですかね…。

そんな私なので、コロッセオで剣闘士の闘いを娯楽として楽しんだ古代ローマの人々のメンタリティってこれまで本当に想像が及びませんでした。しかし今回話を聞いて、「こういう人もいるのか」「そういう思いになるのか」と少し理解しました。共感はできませんが…。

 

自分の加害性・暴力性・どす黒いヘドロに目を向ける、自覚することの重要性

朝井さんの「本当は、自分は何を見たかったんだろう」という言葉に、私も、一緒にぐぬぬ…という気持ち(?)になりました。

以前も、朝井さんの作品を読んで感じた「心のヘドロ」

mizukifukui.hatenablog.com

それに加えて、今回の放送では「自らの加害性・暴力性を自覚する様」が現れていたと感じました。これは、どんな人も持っていておかしくないもの。

自分の嫌な面というのは、向き合うのは大変だし、気力も体力も削られること。でも今回聞こえてきたのは、より一層深くて、よりきついことだと思えて。私も含め、多くの人が考えたくなくて、意識的にも無意識的にも目を逸らしてしまうことを考えるに至れる、という点で、「朝井さんはタフだな」と尊敬の念が湧きました。

(「最近起きているいろんなことが原因にあって、全部つながっている」「見えないように、考えないようにしようとしてたことが表に出てきている」という話ではあったけど、それでも。)

私がそう思ったのは、まさにテラスハウスの一件に関して「各々が、自らの加害性・暴力性を自覚することが必要」と考えていたからでもあります。

それこそ、誹謗中傷の言葉をツイッターなどで書いてきた人は、その言葉がどれほど相手に刺さるものだったのか自覚するべきだと思うし、何か対策ができたはずなのに傍観していただけの人もその“傍観”にあった加害性を省みてほしい。そしてそれは、関係のある人ひとりひとりを責めたいのではなく、「そういう立場に置かれたら自分はどうするか?ひどい言葉を投稿せずにいられたか?何かできたか?」みたいな意味で、みんな考えるべきこと。

私のこの思考は、「加害を反省する」という点で、『戦争と罪責』で読んだことに影響されていると思います。第二次世界大戦時の日本兵の精神性、それが戦後も影響した家庭などについての本。戦争が他人事ではなくなった、考え方が180度変わった本でした。

戦争と罪責

戦争と罪責

  • 作者:野田 正彰
  • 発売日: 1998/08/07
  • メディア: 単行本
 

(この記事でもちょっと触れました▼)mizukifukui.hatenablog.com

様々なものがデジタル化で実体から離れたり、見えなくなってきている現代。傷つけあっていても、その傷は、傷つけた人にも、傷つけられた人にも、誰にも見えない。だから尚更、いつの間にか人を傷つけるのに使っているかもしれない、自分が持っている力や負の欲望を自覚することは必要だと思います。その上でその衝動や思いをちょうどいい具合に制御することで、その力を良い方に使えたり、悲しい出来事を少しでも減らせる気がしています。

そして、朝井さんの「後味悪い」作品はまさに、そういう自覚や自省(&自制)を促してくれているものなのではないか、と思い至りました。時代的にも意義深いのかもな、と。

 

ある意味この放送自体も、ドキュメンタリー的だった。

朝井さんが好きだと言っていた、「むき出しの心」。ある意味それに近い、「生々しい心の葛藤」がこの放送の朝井さん自身から発されていて、ちょっと皮肉なようでもありつつ、私としてはぐっときました。ここまで自分の黒い部分に向き合ってる人の様子(声だけですが)って久々に触れたかも、と。

以前見たドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも似たようなことを思いました。

mizukifukui.hatenablog.com

自分の弱い部分や過去の経験、犯した罪に向き合う受刑者たちの様子には、「私はちゃんと向き合っているだろうか」と突きつけられる一方で、真に心の内側から発される言葉たちを聞いて清々しい思いにもなったのを覚えています。

 

作家という、作品としてアウトプットする機会のある方なので、これをどう消化して、どう作品に反映させるのか(orしないのか)ということがちょっと気になる・楽しみだな、と思いました。「また後味悪いのかな〜読みたくないな〜」「読まなきゃ良かった〜」とか思いそうですがw、それでも作品を読んでしまいそう…。

 

追記:続きの記事も書きました。 

mizukifukui.hatenablog.com

mizukifukui.hatenablog.com