ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

「八十日間世界一周」(の解説文)を読んで、SNSとピースボートの船旅に思いをはせる。【感想録②】

先日紹介した小説、「八十日間世界一周」。本編の小説はもちろんのこと、文庫の最後に付随していた解説(by訳者・鈴木啓二も、面白い指摘をしていて印象的でした。そのことに触れずに終わるのは消化不良な感じがあったので、解説部分の話と、私が思ったことを書いてみます。

前の記事はこちら▼

mizukifukui.hatenablog.com

※私が読んだのは岩波文庫のバージョンです。

 

「複数の異なる空間を同時的に所有する可能性」→今や「共有」までできる。

旅における距離の観点が後退し、旅は、それに要する時間によってとらえられるようになる。所要時間そのものも、技術的進歩とともに限りなく短縮されていく。つまりは、世界が小さくなっていく。そしてその事はとりもなおさず、複数の異なる空間を同時的に所有する可能性がひろがったということを意味していた。

八十日間世界一周』p457より

これはまさにそうだし、今や所有にとどまらず、メールやSNSを通して「共有」までできるわけです。

また、旅の所要時間が短くなるということは、それに伴って情報が届くのにかかる時間も短くなっていったことでしょう。情報は、古くは人の物理的移動や伝聞、手紙・貨物などでもたらされていたと思うので。それが今や、インターネットがあれば一瞬。

私は日々、YouTubeで海外の放送局のニュース中継をいくつか見ています。これまではその国・地域にいないと見れなかったものを、自宅から見れている(しかもテレビのザッピングと同じ感覚で、瞬時に切り替えられる・行き来できる)というこの情況も、「複数の異なる空間を同時的に所有」している、と言えるのかもしれません。

世界のどこで何が起こっても、すぐに知ることができる時代。それは便利だし、より良い社会を作る力にもなりえます。しかし一方で、世界が文化的にどんどん均質的になっていってしまうという側面もあります。グローバルな企業も多いし、自国で見たことあるものが世界の反対側の国にもあるなんてことは、ざらにあるはず。消えていく文化的違いは、何かを犠牲にしていた負の側面もあったかもしれないけれど、やっぱり残念ではあります。

この小説が描いているような昔の世界が見れたら、どれだけ楽しかっただろう、と思います。

 

世界をカタログ・アルバムとして捉える

上で引用した文章は、以下のように続きます。

いってみれば、世界をあたかもカタログやアルバムのように捉え、その様々に異なる空間や様々な驚異を、瞬時にして所有すること。コンピューターの画面上に、今現在の、様々な世界の空間を瞬時にして呼び出し「所有」するという、あの現代的感覚の端緒が既にここに認められる。

同上p457より

この「世界のカタログ・アルバム化」ということから私が思い起こしたことがいくつかあります。

SNS

上で書いた「共有」ということにも繋がりますが、SNSはこの「カタログ・アルバム化」の筆頭だと思います。しかもそれは、ただ見るだけでなく、投稿することで「自分で作って人に見せられる」という大きな特徴があります。

SNS、特にFacebookでは、大学の友人たちが旅行や留学の際にいろんな写真をあげているのも見てきたし、自分でやってもいました。「こんな国に行った」「こんな経験をした」というのを、自分の中に落とし込んで噛みしめつつも、どこかで「早く投稿したい」「見て欲しい、反応して欲しい」「コメントやいいねが欲しい」という気持ちがあって。写真をつけてアップして、アルバムを作ってこそ、その体験が終了する、という感覚もちょっとあったように記憶しています。

そして、そのアルバムの数やバラエティの多さに満足する。他の人はどうかわからないけど、私はそれがステータスのようなものに思えていました。良くも悪くも、せき立てられるように、「みんな(の投稿)みたいにすごいことをせねば」と刺激されてもいました。

そんな行為を数年したのちに、人がタイムラインで見せてくるものや“いいね!”に振り回されている感覚に違和感を覚えるように。

出会った場所や人を「ネタにしている」ようなこの感覚は、ある意味ブログも似たようなものかもしれません。だけど私としては、

  1. リアルな人間関係の有無(インスタやFacebookではリアルな知人友人とつながっているけど、ブログではあまりない)
  2. (①に付随して)「いいね!」の類が承認と結びつくかどうか。人の目と自分が発信したいことの比重の置き方。
  3. 表に出すまでにかける時間・労力

などでだいぶ違いがあります。

 

ピースボートの「世界つまみ食い旅」

「世界のカタログ・アルバム化」で想起されたもう一つのこと、それはピースボートのことでした。

ピースボートに乗っているとき違和感を覚えていたのは、同世代の乗船者が、寄港地で「◯ヶ国目 〜〜(場所名)」と書いたスケッチブックなどを持って写真を撮ること。訪れた国・町を“消費している”ように感じて、内心「変なの」と思っていました。

この解説での表現を借りれば、それは「自分で自分が写った世界のカタログを作る行為」と言えるのかなぁ、と思い当たりました。

しかし一方で、ほとんどの時間を船上で過ごしながら、時々世界の寄港地に着いて約1日だけ見て回る、「つまみ食い」のような旅をしていること自体も、「世界のカタログ化」だと思います。私はピースボートの船上の時間が欲しくて乗船して、世界各国の旅は贅沢ながら“ついでに付いてきた”みたいな感覚だったのも手伝い、いろんな国や町を並列に見ようとする行為は、あまり好きではありませんでした。

(これと近い感覚をこの記事で書いてます▼)mizukifukui.hatenablog.com

また、解説の以下の文が印象的でした。

「八〇日間世界一周」! それこそはまさしく、「世界」の空間的広がりを、「八〇日」という時間に還元した表現であった。

同上p456より 

これ、「まさにピースボートも、その考え方の延長線上にある」と思って、ギクっとしたのです。町でよく貼られているピースボートのポスターには、日数や金額がアピールされています。世界を「時間」と「お金」で見る考え方が、小説が書かれた当時と今と、地続きに繋がっているのを感じます。てか、ピースボートのよくある宣伝文句も、この小説から取ったのかも。

https://www.instagram.com/p/BPPRUeBlCBv/

 

現代における船旅=空間や距離を感じられる手段

一方、この小説の当時と大きく違うのは、飛行機の存在。小説が描かれた1870年代は、鉄道の登場や船のスピードアップによって旅が大きく変わったようですが、今や、しばらく飛行機の機内で過ごせば、物理的には途中にある国もすっ飛ばして、ワープしたかのように遠くの国にもたどり着けます。

それと比べれば、船旅は空間的広がりや物理的距離を感じられる移動手段だと思います。

ピースボートの船旅では、日本を出て西へ向かって行きました。まず台湾に寄港し、その次はシンガポールとマレーシアという、現地のマレー文化に加えて中華文化とインド文化どちらも色濃く混ざっている地域を通ってからインドへ向かうことで、文化圏のグラデーション的な変化を感じられたのが印象的でした。

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マレーシア・クランという町にて。ヒンドゥー寺院からモスクが見えます。

(この記事でもちょっと書きました。▼)

mizukifukui.hatenablog.com

また、以前に行っていたトルコの隣国・ギリシャにも行けて、驚くほど両国の食べ物や土産物が似ている(というかほぼ同じ)のを知りました。

いくつか、ギリシャで撮った写真で振り返って見ます。例えば、よく売られている甘味バクラヴァ。パイ生地に甘〜いシロップがかかったお菓子です。トルコやエジプトなど中東各地でもよく食べられているのを知っていたので、「ギリシャにもあるのか!」と驚き。違うお店を見かける度撮っていたのか、他にも数枚ありましたw

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また、この写真▼に写っている青い目玉のお守り「マティ」は、トルコで「ナザール・ボンジュウ」としても有名なもの。

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ホワイトソース・ひき肉・ナス・じゃがいもなどを重ねて焼いた、まずいはずがない料理「ムサカ」は、トルコにもあるそうで、東欧やエジプトでも食べられているそうです。

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オスマン帝国の時代は同じ国だったとか、歴史については前から知っていたけど、今でもこんなに文化的に近いものなのかと驚きました。それまで抱いていた「ギリシャ=ヨーロッパ」「トルコ=アジアor中東」というイメージが崩れて、「文化的には地続きだ」「世界は繋がっている!」と肌で感じ、世界観が変わったのをよく覚えています。

こういう体験は、それぞれの国にだけ行っただけではわからないことでした。

 

私がした「世界一周」は、105日間(確か)でしたが、小説が書かれた当時の「八十日間世界一周」と、今における「105日間世界一周」は、かなり意味合いが違います。時代背景もかなり違う。

それでもこの小説では、現代の感覚につながる世界観が描かれていたからこそ、140年以上経った今でもこんなに楽しめたんだろうなあと改めて思いました。