ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

今こそひしひしと感じる、自分にも皆にもある優生思想的な考え方の話。ラジオ「ヨブンのこと」を聞いて思ったこと。

ラジオ番組「ヨブンのこと」の7/12放送回を聞いていたら、5月末に続いて、また色々なことを想起させられる話題が聞こえてきました。

radiko.jp

それは、番組内で募集したメールテーマ「内なる加虐心」や、その募集をするに至った契機の一つでもある「優生思想」について。重すぎる…(笑)

「加虐心」って、ラジオで聞いただけだと全く漢字変換できなかったけど、この記事↓で残した話から直接繋がっている話題だと思います。

mizukifukui.hatenablog.com

暗くて重いけど、いろんな点で共感もできました。聞いて考えたことをまとめてみます。

話していた内容

まず、7/12の回の冒頭で朝井リョウさんが話していたことをちょっとまとめてみます。

  • ただ生きているわけでなく、その上で何かしている人に対する尊敬の念が、あるとき反転することがある。そういうことができてない人は生きてる価値ないんじゃないかとか、食い潰してるだけなんじゃないかとか。どの思想にも反転する瞬間がある。優れた命というのを思いすぎるがあまりに、そうでない命を邪険に扱ったりしてしまう考え。
  • 『養育を語る』で芹沢俊介さんが書いていて、とても同意したのは、「誰の心の中にも優生思想というのは少なからずある」ということ

    芹沢俊介 養育を語る 事件篇I

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    • 作者:芹沢 俊介
    • 発売日: 2018/06/03
    • メディア: 単行本(ソフトカバー)

  • コロナ禍の中で、「医療従事者・宅配業者の人ありがたいな」と思うと同時に、「自分は本当に何もできない、意味がない人間だ」と反転して思った。優生思想が高まっている危機感もこの数ヶ月間あった。


では、考えたことを何点か。 

 

自己卑下してしまうのも、誰かを見上げ見下す考え方の表れ

この話を聞いてまず気づいたのは、「自分の存在の価値・意味を卑下してしまうのも、優生思想の表れなんだな」ということ。

誰かを切り捨てたり、一方的に価値を図ろうとする考え方でもあるけれど、同時に自分にその厳しい判断を突きつけてもいる。そういう感覚は、わかるなぁと思いました。わかる自分がいるということは、つまり、自他に対して価値判断をしている自分がいるということなんだなと。

「働かざる者食うべからず」という言葉もあり、「村八分」を恐れ、「迷惑をかける」ことを嫌う雰囲気がある日本の社会。自分が属する共同体・社会に価値を生んでこそ、そこにいられる、という感覚が強い気がします。「生きているだけでいい」とはなかなか思いにくい。

そんな中で、私自身も無価値感・無力感を感じることも多々。こういう感覚の感じ方や、反応の仕方は人それぞれでしょう。私がよく陥るのは「価値の証明をしたくなる」という状態だと思っています。約4年前、ピースボート乗船時に受講していたプログラムの終了後(帰国して少し後)に、インタビューをしてもらって書き残してもらった自分の言葉に、その感覚がよく表れています。

船に乗るまでの1年半模索の日々で、いろんなところに行っていろんなことに取り組んできたけれど、どこか、マイナスの部分を埋めるために自分に何かを課している感覚がありました。でも、船に乗って「今の自分でいいんだ」と思えるように変化しました。

船を降りてからも変わらずいろんなところに行くけれど、今はマイナスの部分を埋める感覚ではなく、好奇心から行動していると感じています。

ここで言った「マイナスの部分を埋めるために自分に何かを課している感覚」は、最近はまたぶり返してきていて。あらゆるボランティアの類も、このブログも、どこかに「私は生きている価値がある、と自他に証明したい」という思いがあってやっているな、と感じていて。

「生きる価値」をそういう行動に任せるのは依存的だなとわかってはいます。それができなくなったりした瞬間に崩れ落ちる、脆いものだと。

また、主観的な価値判断を持っていると、ややもすれば、その価値に合わない人を下に見がち。そして「この人よりまし」とか思って、安心する。そうやって人を下に見ないと自尊心が保てない状態というのが、優生思想的な考え方だなと思います。それは他人も自分も傷つける。自分にも発破をかけ続けて、摩耗してしまう。

それぞれが、比べたり、見上げたり、見下したりしなくても、どっしりと自尊心が持てるといいんだけどな。

  

相対的な劣等感は健全な競争心にもなりうる、けど。

客観的なことに基づく劣等感などは、健全な競争心・向上心にもつながるから、必ずしも悪いことじゃないなと思います。

だけどそれは、自己肯定感の基礎があってこそ。何かに負けたり、点数が低かったからと言って、その人の価値がないわけでない。その基礎として依存するのは、評価に振り回されてしまうし自他を傷つけやすいから良くないなと思う、という話です。

 

誰の心の中にもあるものだと自覚する大切さ。

話の中で、「誰の心の中にもある優生思想を、自分からは遠いものとして論じることは危ないこと」「残虐な犯罪を起こした人と自分たちを分断しがちけれど、繋がっている」というような話もあり、私はとても共感しました。

正直、「より良い種を残したい」という考え自体は、向上心や好奇心にも繋がっているように思うし、成長して種をつなぐ生物全般の一部として必然的にありうるのではないかと思ったりもします。(自分が思う基準を人に押し付けるのは違うと思うけど。)だからこそ、どんな人の心の中にも、何かしらの形で、優生思想的な考え方が多少はある。

そして加虐性・暴力性も、いじめがあらゆる社会でなくならないように、普遍的にありうるんだと思っています。「いじめは良くない、やめよう」というだけでは、綺麗事すぎるし意味がないな、といつも感じています。

そういう、タブー視されて蓋をされやすい部分を、いかに皆で自覚し制御する(はたまたうまく生かす)のか?という視点は本当に必要だと、私も思います。

 

何がどう役立つ・開花するかわからない時代。

変化も激しく、予想できないことが日々巻き起こる今。コロナ禍で如実に、「予想できない時代ってこういうことを言うんだな」と実感しました。

そして同時に、私の住む神奈川県のコロナの対応を見ていて、「何がどう役立つかわからないから、やりたいことを色々やっておくのが良いんだろうな」と思いました。

と言うのも、神奈川県はコロナ対応でLINEを早々に活用し始めたのですが、それは知事が掲げる「未病」のプロジェクトや税金の支払いでLINEと提携していたかららしいのです。

www.fnn.jp

プロジェクトの方は正直、「たまになんか県のたよりみたいなやつで見かけるな〜」というくらい。「別に反対とまでは言わないけど、だからと言って何をしているかわからない」みたいな感覚でした。でもこれが、今後効果は検証すべきですがとりあえずこういう形で役に立って、「やらせとくもんだな〜(笑)」と思ったのです。

こういう風に、自他に対して「意味がない」「役に立たない」と思う興味や能力でも、開花したり、役立てられる日が来る可能性は、以前よりもかなり高いと思うのです。

また、以前高野秀行さんの「アジア新聞屋台村」を読んで、「副業が組織にもたらすメリット」を改めて感じました。

mizukifukui.hatenablog.com

個人・社会として対応できるものの幅・多様性を確保しておくことが、生存戦略としても必要な時代だと思います。

 

関連して思ったことがもうちょっとあったのですが、また書きます…。