ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

ヨコハマトリエンナーレ2020に行ってきた。普段は見(え)てないものを見る営み。

去年の秋に「あいちトリエンナーレ」に行ってから、現代アートに関心を持つようになり、地元・横浜で3年に1度開かれる「ヨコハマトリエンナーレ」(略:ヨコトリ)もぜひ行ってみようと思っていました。

今年7月に始まったヨコトリ2020。開始直後から気になっていましたが、先日ようやく行ってきました。全体で感じたことや、面白かった作品を紹介します。

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ヨコハマトリエンナーレ 概要

www.yokohamatriennale.jp

2001年に始まった、現代アートの国際展。7回目となる今回は、10/11まで、みなとみらいの横浜美術館と、そこから徒歩7分の施設「プロット48」で開催されています。


今回副題についている「AFTERGLOW」とは、「残光」の意味。HPを参照すると、

  • 太古の昔も現代も、「破壊/毒性と、回復/治癒の連続性の中で、人間の営みが行われてきた」
  • 「目まぐるしく変化する世界の中で、有毒なものを排除するのではなく、共存する生き方をいかにして実現するのか」という問い

という意味合いを込めているようです。


また、普通は1つのテーマのもと作品が選ばれますが、今回はキュレーションの出発点として、鍵となる5つの「ソース」を挙げたそう。そのキーワードは、

  • 独学:人に教えられるのではなく、自ら学ぶこと
  • 発光:学んで光を外に放つこと
  • 友情:光の中で友情を育むこと
  • ケア:互いをいつくしむこと
  • 毒:世界に否応なく存在する毒と共生すること

これらは、副題の意味合いをより落とし込んだ言葉、ということかなと理解しています。


感想

ぽかんとしちゃう「わからなさ」

アーティスティック・ディレクターを務めたグループ「ラクス・メディア・コレクティヴ」によると、“「わからない」を楽しむ”ということを大切にしているそうです。なので、壁に貼ってある作品解説も、制作背景などはほとんど書いておらず、説明的な文章でもありません。

私も、その「わからなさ」は現代アートの醍醐味だとは思っています。しかしその「わからなさ」が今回はありすぎたような気がします。それは、「なぜこの作品を作ったのか」という過去に関する部分と、「何を提示したいのか」「世界をどうしたいのか」という未来に関する部分の説明があまりなかったので、「今」だけしかわからず浮遊しているような感じがあったからかな、と思います。

私としては、最初は解説を読まずに作品を見て「わからんな〜」「何だこれ」と思って、解説を見て「へー」「そんな発想もあるんだな」とか思う、くらいがちょうどいいと思っています。

それでも、そんなこと抜きに感覚で「綺麗」「面白い」と思える作品がたくさんあればもっと楽しめたでしょうが、私にとってはそういう作品は少なかったです。惹かれるものが少ないと、「わかりたい」と思う気持ちや、想像力を膨らますきっかけがないもので。ただ「なんだこれ…」と、ポカーンとしてしまうことが多かったです。

あと単純に、作品解説の配置が分かりづらくて、「この文章はどの作品のもの?」というのも多かったです。

 

全体像がぼんやりとしていて掴みにくい

副題は、その言葉だけでは抽象的・象徴的すぎてよくわかりません。副題に込められた意味合いや考え方は、ぶっちゃけ、いまこれを書きながらHPを読んで、「あー、そういうこと…?」となんとなく輪郭が掴めた感覚です。

そして、今回は5つのソースのもとに作品が集まっています。なので、作品群全体のつながりがぼんやりとしていて、実際見ているときは「なぜこれはここに来たんだろう」と不思議に思う作品も多かったです。

“一極集中でなく、分散させる”というような考え方は、民主的でもあり、多様性やグローバル社会の体現でもあると思うので、アイデア自体は面白いと思うし共感もします。でも芸術祭としては、「全体としては何を提示したいんだろう」と物足りなさを感じました。

ソース自体はそれぞれ面白いと思うし、特に「毒:世界に否応なく存在する毒と共生すること」というソースは、コロナ禍の今どんぴしゃでもあり、“誰もが持つ加害性”みたいなことをラジオやらニュースやらでよく考えている私としてはかなり興味深いものでした。

mizukifukui.hatenablog.com

でも、作品解説に「このソースに合うから選んだ」みたいなことは書いていないし、なんせソースは5つあるので分散している。キャッチコピーやソースがどう作品(の選び方)に反映されているのかわからず、まとまりのなさを感じました。


普段は見えない・見ようとしないものの提示

特に「プロット48」には、生殖や性に関する作品が多いと思いました。表向きはタブーとされがちなテーマに光を当てているという点では、「普段は卑しいものとしているもの=“毒”とどう共存するか」というような軸があったと思います。

また、私が気に入った作品(後で触れます)も、「身近だけど、普段は見えてないもの」をモチーフや素材としているような作品でした。

いつもは意識的にも無意識的にも「視界の外に置いているもの」に視線を向けることになり、新鮮な感覚もありました。


もうちょっと双方向性が欲しかった

作品によっては、事前に募集した人でプロジェクトを行い、それを作品にするというものもありました。また、予約すればVRなどで体験ができる作品もありました。

しかし全体的に、来場者が参加できる余地があまりないと感じました。まあ、このコロナ禍で不特定多数の人の交流などは難しくなっているのも影響してそうですが、もっと作品と関わったり入り込める感覚を味わいたかったなと思います。


もうちょっと具体性・社会性が欲しかった

あと、これは本当好みや趣向によりますが、私としては、もっと具体的な気づきに基づいた作品や、その社会性があると、もっと作品に惹かれたと思います。まあ、そういうのがあっても解説などに書かれてないからわからなかったのかも…。

その点、私は「あいちトリエンナーレ2019」はとても好きでした。「社会課題を表現して知らしめる手段は、こういうものもありなんだ」という気づきもあり、現代アートが身近なものになりました。

mizukifukui.hatenablog.com

mizukifukui.hatenablog.com

 

気に入った作品

次に、私が気に入った作品を紹介します。

エヴァ・ファブレガス「からみあい」:腸の多様な細菌の一部になった気分

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ヨコトリがメディアで紹介される際よく使われている写真にある作品でした。ゴムのバランスボールが中に入った管が、何本も組み合わされています。

作者が意図したものではないようですが、ディレクターグループ・ラクスと同じく私も「でっかい腸にしか見えない」と思いました。みんなが体の中に持っていて身近な存在だけど、普段見ることはない内臓。それをこうして可視化したり、巨大化すると、普段とは違う視点が得られると思いました。

この作品は、自由に触ったり座ったりできます。いろんな人が、座って感覚を楽しんだり、写真を撮ったり、休憩したりしていました。腸にもいろんな生き物がいると言いますが、多様な人が作品を思い思いに楽しんでいる様子が、腸の多様な細菌や消化物とイメージが重なり、自分も細菌にでもなった気分になり、とても面白い感覚になりました。

また、作品解説の「生きるとは他の生命を迎え入れることだ」という作者の言葉がとても響きました。

 

エリアス・シメ「アリ&陶芸家。来たるべき5」など:身近で現代的素材の美しさ

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IT機器の導線や半導体のパーツ、キーボードなどを使った作品群。

スマホやPCなど、日々使っているものの中身は、存在としては身近だけど改めて見るとこうなってるのか、とも思ったし、「芸術の視点でこういう物を見たことなかったな」と気づかされました。現代的素材の美しさ、美しくなる可能性を感じました。

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ジャン・シュウ・ジャン(張徐展):アニメーションと音楽の不思議な魅力

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紙の人形のアニメーションと、太鼓や木琴?などの音楽で構成される映像作品。

単調だし、ストーリー性はなくひたすら繰り返しなのですが、アニメーションも音楽もなんとも言えないエキゾチックさや心地よさを感じて、ずっと見ていられそうでした。

作者は台湾の人で、「儀式や葬式用の紙細工作りを家業とする家庭」に生まれたとのこと(HPより)。そもそも、「そんなもの・仕事があるんだ」と驚きました。

映像の他に、アニメーションで使われた人形やセットも展示されていました。

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まとめ:今後もぼんやり考えます。

私にとって今回のヨコトリは、いくつか好きな作品はありつつも、わからなさの方が圧倒的に大きく、かといって「“わからない”を楽しむ」という域にも至れない、なんともいまいちな後味が残りました。

ただ、それも悪くないというか、それこそこういった芸術展に行く意味な気もします。こういう消化不良をただ嫌なものとして片付けてしまうと、身の回りや世界の、目を向けるべき大事な部分を見落としたり、わかりやすいものばかり見てしまう。

もうちょっと刺激的な発見もしたかったところですが、漠然としたこの謎の感覚を、またしばらく考えつつ過ごしてみたいと思います。実際、このブログを書きながらちょっと自分なりの解釈もできてきたので、今後も何か発見があるかもしれません。