ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

やりきる勇気か、やめる勇気。

決断に自覚的になりたい。

私は今まで、自分自身で、何を決めてきただろう。しっかりと「こうする」と「決断」したことが、今まで何度あっただろう。

私はよく「こうすることになった」という言葉遣いをしがちだ。自分では決めきれない自信のなさが見え隠れする言い方。一方、自分が「こうしたい」と思ったところで、全部自分だけで決めることは不可能だ、という意識もある。人間社会の大抵のものは相手がいて成り立つことであって、その相手がどうするかで、私もどうするか変わってくるだろう。といっても、自分では決めきれなかったけど、いろんな要因の結果こうすることになった、みたいな感覚でいつも言っている気がする。その判断に至るまで自分の意思がどれだけ介在したかと問われたら、自信がない。

生活の中でも社会の中でも、いろんな場面で決断というのは求められる。今日何を食べるか、何を買うかという日常的なことから、自分の進路、ときには家族の命についてまで。日常的なことは、自分で選んだ、自分で決めたという自覚はないかもしれないけれど、確かに決断していると思う。

日常的なことでも、「自分で決めたんだ」と自覚的に思えたら、自分の力を信じることができるようになりそうだ。「自分で決めた」と思えるようなプロセスがないから、自己肯定感が低くなってたり、自信がなくなってるのかもしれない。

 

私は今日、何を決めただろうか。

試しに、今日自分で決めたことを列挙してみる。かなり些細なことから。

  • ベッドから起きること(だるかったけど、ずっとこのままというわけにもいかんと思った)
  • 用意された朝ご飯をそのまま食べること(加工することも多い)
  • お昼に、おじやを作って食べること(昨日の鍋の残り汁があるから)
  • おじやのために白米を100g、鍋で炊くということ(炊飯器で炊くには少ないかと思って&鍋で炊いてみると面白い)
  • おじやに卵とねぎを入れること(冷蔵庫にあったので、入れたらおいしそうだと思った)
  • 昨日録画しておいたテレビ番組を見ること
  • ブログを書くこと(最近毎日書けているし、何かしら書きたくて)
  • 紅茶を飲むこと(好きだから)
  • 友達に誕生日おめでとうとLINEすること(Facebookで知って、久々にその子に連絡してみようと思った)

列挙してみて、「決断」というのは意思でもあるけど、行動でもあるように思えてきた。○○することに決めた=○○する(ための何かを始める)ということだとしたら、実際にその行動を起こすことが「決断」には必要ということになる。

そして、複数の選択肢が存在することが見えていて、そこから自分なりの理由をもって選んだという自覚が、「決断した」という意識にもなりそうだ。無意識に理由もなくやっているSNSのチェックや検索などは、上記に書こうとは思わなかったから。そして、選択肢を見ようとすること、選択肢を探すことも必要だと思った。

自分がやっていることに、ちゃんと自分がいるか。「仕方なく」「しなきゃいけない」と、自分の気持ちがなくなってはいないか。上記で列挙してみたら意外と挙げるだけはできたから、私はまだ、日常的なことには意識を向けられるようだけど、もう一段階上の決断(明日のこと、将来のこと)となると厳しい。選択肢や現状(実際自分ができるかどうか)を見ることから厳しい。

私は一度決めたと思ったことでも、そのあとの行動が続かないことが多い。(それは上で書いたことと照らせば、「決断」してないことになる。)やる気の上下が激しくて、あと1ヶ月で23歳になるけれど、未だにほとんどコントロールが効かないし、どう扱っていけばいいのかわからない。昔は、やる気を失って動けなくなるたびに自分を責めて駆り立てていたけど、そろそろ「そういうものだ」と観念しようと思えてきた。(この記事で書いたことに通じる。▶︎「ひとと同じであることを諦める」

 

「やりきる勇気」か「やめる勇気」

そんなことを考えながら、 先日、ブログを書いてみたから読んでみてほしいと、ある友達に連絡をした。そして、ここで書いたことに関連して、私にとって核心をつく問いかけをされた。そのとき、あまりにも大きくて、がつんとくる言葉をもらった。

今やってる憂鬱なことを離れないと好きなことができないのであれば、いまやってることを「やりきる勇気」か「やめる勇気」を出さないといけないね。どっちも苦しいけど、どっちも正解だよ。大切にしたいものは「自分」でもいいし「家族」でもいい。「友人」でもいいし「恋人」でもいい。けど、気にしているものが「世間体」ならそれは気にすることではない。

 「良薬口に苦し」とでも言おうか。傷口に染みてすごく痛いのだけど、それは効く薬だからであって、しっかりと傷のいちばん深いところまで染みてくるこの痛さも、愛おしいし、生きていることを感じられて嬉しい。そんな、言葉だ。かっこよさと潔さに、頭が、心が、しびれる。私が記事ひとつ書いたエネルギーの数倍の力をもって、こんな言葉を差し出して、ぶつけてきてくれたこと、本当に感謝している。

船の上で聞いた、心が震えた言葉にも似ていた。「成功する人生よりも、熱狂する人生」と言うその人は、「やりきれないならやらない。やるからには、関わる人の人生を変える気でやる。」というようなことを言っていた。

今まで、持ちうる選択肢はすべて生かしておきたくて、なあなあにすることが多かった。嫌だ、違うと思っても、「やめる」と決めて行動することはできなかった。決めたという自覚がなかったから、好きでやっているはずのことも、気持ちが乗らず「やりきった」と思えないことが多かった。

 

決断に時間をかけると、気力がなくなっていく。

あと、優柔不断な私は、決断に至るまで時間がかかる。意思を決める段階も、実行する段階も、どちらも本当に時間をかける。でも、それが精神的に不衛生なのはうっすら自覚している。

決断の瞬間は思い切りが必要だけど、やってみるとそちらのほうがすっきり過ごせて、気力も減らずに済む、というのを、このマンガはすごく可視化してくれている。こうわかっていながらも、決断を一瞬でもひるんだ隙に、何をするにもつきまとってくる恐れと罪悪感に、気力は飲み込まれる。

やりきるのか、やめるのか。対峙すべきものがたくさんある。

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