ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

明るすぎる時代に生まれて。

いろんなものが、眩しすぎる。

コンビニや自販機の明かりが夜も煌煌と道を照らしていたり、街灯も今は小さなLEDの電球が使われて、長く使えるんだろうけど明るすぎて目がくらんだり。部屋の中にいる私を照らす光も、暖かみがなくて、部屋にあるモノ全てを見せつけてくるよう。パソコンやスマートフォンの液晶画面も煌煌と私の顔を照らし、目に情報を焼き付けてくる。

少し前までは、いろんなものがもっと暗かった。小学生の頃買ってもらったゲームボーイアドバンスは、今見たら画面は真っ暗だ。画質もそんなに良くなかった。今は、画面を通しても、いろんなものが鮮明に見える。写真や映像を見たら、もう本物を見なくても満足できてしまいそうだ。

 

明るすぎて、見えなくなるもの。

去年の夏頃、自分の部屋よりももっと静かで、もっと一人になれる場所を求めて、夜に車の中にこもりに行ったことがあった。マンションの駐車場の一枠に止まっているうちの車に入ってみると、目の前の街灯がやたら明るくて、まぶしかった。いつの間にか、古い電球からLEDのものに変わっていたようだった。

私はそれを車の中から見て、一瞬で思い出したことがあった。小中学生の頃は家族で車で外出することがまああって、冬に車で帰ってきて、外に出て、「わあ、星がよく見えるね」と、空を見上げて、都市部だからそう多くの星が見えるわけではないけどオリオン座を見上げたりしていた。

そんなことを思い出して、「こんな明るい街灯があったら、もう見えないんじゃないかな」とふと思った。さみしく、悲しくなった。そして、「明るすぎる時代なのだなあ」と思った。

https://www.instagram.com/p/BRDx32hgpN2/

 (今年の年始、長野県のペンションでバイトしたとき撮った写真。)

 

SNSも、明るすぎる。

メールやSNSが発達してもはや社会のインフラとなる中で、人は、いつでも連絡を取り合えるようになったし、いつでもその人が何をしているか知りうるようになった。すぐ返事をしないと、いぶかしがられるようになった。

大学生になってから一気にSNSに触れ、使うようになった私としては、SNSなしの学生生活は本当に考えられない。連絡手段、友達とどこかに行く約束をするきっかけ、面白そうなイベントや映画のこと、テレビや新聞では得られない情報などなど、アンテナを張ればそれだけ色んなきっかけが落ちていて、いろんなことを知れた。そのおかげで今の自分がある。

だけど知れたことが全て自分にとってプラスに働いたかというとそうではない。友人の充実した日々を見て、自分と比べて自己嫌悪に陥ったり、世界で起こる悲しい出来事を、前より詳しく知るようになって無力感を覚えたり。また、返事を早く求められたりして「ほっといてくれ」と思ったり。

良くも悪くも、明るすぎる時代。透明で、よく見えることが美徳とされる。いろんなものが照らされて、よく見えるようになったけれど、その分、悲しみや欲望、妬みも増したように思う。そして人は、濁りやくすみを見せないように努力して、SNSのタイムラインはきらきらしたもので溢れかえっていく。

明るすぎるのだ。自然じゃない。無機質な明かり、無機質な白。そしてそれを消費し、消費される私。

たしかに、明るく振る舞おうとなんであろうと、自分のやっていることなどを表立って表明できれば、胸を張れて堂々としていられて、気持ちよく過ごせるんだろう。それを見て自己嫌悪に陥るのならば見なければいいだけなのだろう、けど。

そういう状態に嫌気がさしたから、私はこのブログで、できるだけ暗い、ざらざらした、苦い部分を書いてみよう、ということをなんとなく意識しながらやっている。

 

液晶画面は、その場を白けさせる。

中学生の頃までは、電車やバスの中で多くの人が携帯の画面を見つめている光景に、すごく違和感を覚えていた。異様な感じがしたのだ。だけど、高校に入ってバス通学となり、少し慣れた頃には、私も画面を見つめる側になっていた。今はもう地下鉄でさえ電波が入るようになって、どこでも携帯やスマホの画面を見る人はいる。私もたいていその人々の一部になっている。

大学や何かの講演会などでも、パソコンやスマホを使いながら話を聞いてる人は多い。ただ暇つぶしにSNSを見ている人もいるだろうし、内容のメモを取ったりしている人もいるだろう。だけど理由がなんであれ、なんだか、異様な感じがするのだ。

その異様さは何から来るんだろう、と私が考えて至ったのは、液晶画面(インターネットにつながる媒体)はもはや別次元の世界に通じるものであって、心がその場にない感じが、その場を白けさせるのだ、ということだ。隣にいても心は別の世界を見ている、という状態が、異様なのだ。

 

暗闇でこそ、光るもの。

街灯が道に立ち並ぶ都市の中では、夜も外は明るい。家の中も、いつでも電気が通っていて、四六時中煌煌と蛍光灯に照らされる。だから今更、暗いのは不便かもしれない。夜になったら暗くなって何もできないなんて不条理なのかもしれない。夜が明るくなることで得られることは多い。だけど明るさの代わりに失ったもの、暗闇でこそ得られるものもたくさんある

インターンでお世話になってから大好きになった島根のとある町に行くと、夜は本当に暗くて、夏は空に天の川もはっきり見える。街灯もほとんどない。だからか、今まで私がその町に行った3回で、毎回、夜に誰かしらと暗い中語らって良い話ができた思い出がある。互いの目を見なくても、周りがよく見えなくても、だからこそ聞くこと・話すことに注意を傾けて、本音で語らえたのだと思う。

そして、明るすぎる環境は、人の目も甘やかす。意外と暗闇の中でも、しばらくすれば慣れて道が見えるようになったりするのだ。

電気は人から夜を奪いつつある。だけど人は今までずっと、太陽や月を見ながら、その制約の中で生きてきた。便利だけど無機質な世界と、不便さもあるけど有機的に暮らせる世界と、どっちがいいだろう。私は後者に近くありたい。(といいながらどんどん夜型になっていく生活)

 

明るすぎて、見えなくて良かったものが見えすぎて、見えていたものが見えなくなって。だから私は、あえて不便なようで、人間こそが光る場所に行きたいのだと思う。