ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

「燃え尽きたい」という言葉たちへの違和感。

最近、仲のいい友人や大好きなアーティストたちが、「燃え尽きたい」みたいなことを言っている。そしてほかのいろんな人も、いろんな場面でそういうことを言っているような気がする。

偶然、一昨年に出た、東大・教養学部の卒業式の学部長式辞についての記事を見つけた。読んでみると、終盤でニーチェの引用とともにこんなことを話したようだ。

それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。 

東大卒業式の式辞が深いと話題に「善意のコピペや無自覚なリツイートは......」(全文)

ここを読んで、私の中にある「人は燃え尽きなければ良い人生は送れないのか?」という疑問や違和感がまたさらに大きくなった。

 

「燃え尽きたい」への違和感を明確に覚えたのは、ピースボートで出逢ったある水先案内人(ゲスト)の言葉と、それに共感する友人の話を聞いたときだった。「人生でやりたいことに全力を尽くしたい」みたいな意味合いだったと思う(けど、共感しなさすぎて内容はあまり覚えていない。そのときに自分の中に湧いた感情は明確に覚えている)。

こういう言葉を、そのときの文脈で聞いたとき、「私はやだなあ」と思った。私は燃えたくない。自分の中に燃える炎がある、みたいな感覚も全くない

 

思い返せば、敬愛するコブクロも、2011年に活動休止し翌年復帰したときを振り返って、「ああやって燃え尽きなければ良い音楽が作れないのなら、僕らは何度でもそこに突っ込んでいく」というようなことをテレビ番組で言っていた。

これを聞いたときは、そこまでして良いものを届けたいと強く思っていることに「すごいな」と思いもしたけれど、正直、少しひやりとしたものを感じていた。

 

私の尊敬する人たちが、「燃え尽きたい」と言っているけど、私は違和感がある。燃え尽きたいと思えないし、思いたくない。このことについて、なぜ私がもやもやするのか、理由を言葉にできそうもなくて、半ば諦めながらも、最初に引用した記事を見かけたから、「今だ」と思ってとりあえず書いてみている。

東大の(当時)教養学部の学部長の言葉のこの部分は、えぐられるような感覚を覚える。

自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。

結局私は、生まれ変わったように今までの自分を手放して、新しい自分を引き寄せることが、怖いのだろうか。

でも、過去の経験が自分というものを形成しているとしたら、それを手放して、燃やし尽くすことは、自分を否定することになるんじゃないだろうか。

ていうかそもそも、「自分を焼き尽くす」という字面だけで十分おぞましい。皮膚のこわばりや、頭や心がへこむ感覚がある気がする。普段から辛いものや熱いものが嫌いで、自分を痛めつけるようなことをしたくないからか。船旅で出逢った友人で、想像力・感受性の強さから、原爆などの話を聞くと皮膚がぴりぴりするという子がいたけれど、私はこの字面を読むときその子と近い感覚があるかもしれない。

「怖さ」というのはきっといろんな種類があると思うけれど、私が「燃え尽きたい」「自分を焼き尽くす」などの言葉に感じる怖さは、自分の身を守るため「これ以上行ったらだめだ!」というときに感じる健全な怖さ、だと思う。でも、「そういうスリルや怖れを超えて挑戦を重ねてきたのだ」とか思う人も多いんだろうなあ、と思ってしまう。

 

自分の中に火が燃えるような感覚がある人は「燃え尽きたい」と思えばいいのだろうけど、私は共感しない。でも私には火はなくても、湧き出る水や、伸びていく樹の感覚はある。

火は人間が人間であることの証明だと思う。火を扱えるということが人間という動物のアイデンティティだと。だから火は、燃やそうと思えば燃やせるし、消そうと思えば消せる、人間の意思が介在しやすいものと言えるかもしれない。だから「己の中に火が燃えている」感覚がある人は、意思が強いのかな、と考えてみる。

その一方、私がイメージとして自分の中にある、森の中の水源や大樹のようなものは、すごく「自然なもの」であって、人間の意思うんぬんではない。枯れるときもあるし、芽吹くときもある。大きな生態系の循環の一部でしかない。それをコントロールしようとすることは無理がある。そんな感覚が、自分の生き方についてもある気がする。

燃えるというのは、どこか破滅的で、好きじゃない。燃えるのは、死んだときだけでいい。生きている間は、自分の中に湧きあがる想いや、枝を伸ばしたいという想いにそのまま従えるようでいたい。川に流れる水のように。森に根を張る大樹のように。

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