“インドの映画”だけどボリウッドじゃない。「あなたの名前を呼べたなら」を見てもやっとしたこと。
昨日、インドが舞台の映画「あなたの名前を呼べたなら」(原題:Sir)を見てきました。インドの映画というと、“ボリウッド”と呼ばれる、歌とダンスが見もので長尺な作品で知られていますが、こちらは全く違います。
見終わっての印象は、正直「うーん、よくわからん」というのが大きかったです。なので、そのわからなかったポイントや理由を、ネタバレありで探ってみたいと思います。
- 映画の背景: インド出身で欧米で活躍する女性監督の、長編デビュー作
- よくわからん①「階層の違い」の描き方
- よくわからん② 2人の感情
- よくわからん③ 音楽が唐突
- 最後は「じんわり&もやっと」の 、ヨーロッパ的作風。
映画の背景: インド出身で欧米で活躍する女性監督の、長編デビュー作
この作品の監督は、インド・ムンバイ出身で、アメリカの大学を出て、助監督や脚本家としてヨーロッパでも活躍しているというロヘナ・ゲラさん。作品のHPのインタビューでも語られているように、彼女の育った環境や、時が経ってもインドの階級に関する状況が変わっていなかったという気づき・もどかしさがストーリーに大いに反映されています。
また、インド・フランス合作となっている点でも、インド・ムンバイを舞台にした映画ではあるけれど「ボリウッド」的映画とは違うと言えます。
よくわからん①「階層の違い」の描き方
映画のストーリーとしては、簡単に言うと、メイドのラトナと雇い主のアシュヴィンが恋に落ちる話です。立場や階層の違いから、許されない恋。…なのですが、いまいちそのまずさが伝わってこなかったと思います。というのも、やっぱり、前提となるインドの格差社会をあまり理解しきれないのです。
「未亡人」であること
メイドとして働くラトナは、農村出身。19歳で結婚したものの4ヶ月で夫が亡くなり、「未亡人」となってしまいました。ラトナは未亡人として、妹が結婚する時も結婚式に参加できないなど、村では制限や偏見のある「人生終わり」な状況に置かれてしまいます。
…ということは描かれるのですが、そんなに「人生終わり」なのかがいまいちわからず。ラトナがアシュヴィンなどに「未亡人は人生終わりなんです」と語る場面は何回かあったけれど、実際ラトナの村で未亡人であるとはどういうことなのか伝わってくる場面は少なかったように思います。
そういう偏見にフォーカスするのではなく、そんな村から出て都会で夢を追いかけ始めたラトナにフォーカスしている未来志向な作品、とも言えます。
田舎と都会、地域の文化差
また、インドなど新興国では今、ものすごい差があるんだと思います。映画の中で描かれる田舎と都会の差も相当なもので、生活様式や受け取る情報、見ている世界にも及んでいます。
アシュヴィンはアメリカで留学生活を送っていた建設会社の御曹司であり、普段接する情報も、家族との会話も英語。フォークやナイフを使ってテーブルで食事をします。一方、ラトナは現地語のテレビ番組を見るし、食事は床に座って手で食べます。
日本でも、経済格差や都会と田舎の差はありますが、発展してしばらく経ったからか、生活様式の違いはそれほど目立つものではなくなっています。また、インドは国自体が広いので地域ごとの文化差もあります。そういった違いから、2人の背景にある圧倒的な文化の差は想像が及ばないのを感じました。
「メイドのいる暮らし」
あと、日本では大多数の人にとって「メイドのいる暮らし」は程遠いと思います。家事をお願いする家事代行もそこまで一般的ではなく、家事は自分でするものという考えの人が多い。家に家族以外の人、しかも雇って住んでもらっている他人が住んでるというのも、気が休まらないと思ってしまう。そんな社会からこの作品を見ると、あまりにも遠い世界に思えてしまいます。
まあ、日本の一般的な暮らしと比べて感じるこの“遠さ”より、ラトナとアシュヴィンの暮らしの間にある“遠さ”の方が大きいのでしょうが。
しかし私には、「メイドのいる暮らし」を少し体感する出来事も、数年前ありました。中東のUAE(アラブ首長国連邦)で、現地人の友人の家に泊めてもらったことがあり、その家にはメイドさんが2人いました。おそらくフィリピン出身の、女性2人。2人を家の中で見かけることは時たまありましたが、関わりがなく、話すこともありませんでした。
そして、UAE人の男友達が、私ともう一人の日本人女子計2人を車で近所を案内してくれたとき。「昔この辺に住んでた」ということで住宅街を徐行で走っていたところ、警官に車を止められました。UAE人男性がアジア人女性2人を後ろに乗せていたことで、「メイドを連れ回している疑い」をかけられたのです。その疑いはすぐ晴れましたが、「こんなことがあるんだ」と驚きました。
メイドさんとどう関わるかは人や家によりますが、UAEでの体験は、メイドと雇う家の人の関係を知るきっかけになりました。
また、「邦題がわかりやすすぎる」というのも感じてしまいました。原題は、メイドとしてラトナがアシュヴィンを呼ぶ時の「Sir」。そして映画の最後には、メイドと雇い主という立場から解放された2人を描き出し、ラトナが電話で「アシュヴィン」と呼びかける。「あなたの名前を呼んだ」わけです。最後の場面で、「そういうことね」となります。
だからといって、他にどんな題をつけられるんだろう、とも思います。映画内ではSirと言うところは「旦那様」となっていて、それをそのまま邦題とするのもなんだかなーという感じだし。なので仕方ないかなと思います。
よくわからん② 2人の感情
立場上許されない恋だからか、2人の感情の動きがよくわかりませんでした。アシュヴィンがラトナに惹かれているのは、なぜ?いつの間に?という感じで、キスシーンが唐突すぎて困惑。しかもラトナも、キスをすぐ拒絶している風には見えず、ラトナもアシュヴィンを恋愛対象として受け入れてるの?!いつの間に?というのも混乱しました。(後で「過ちでした」と言うのも、本心というより立場上ってことですよね?いつの間に惹かれてたのか全く分からず…)
アシュヴィンがラトナの夢を聞いて応援し始めたということが、立場を超えた、人間としての交流の始まりだったということですかね。その後、ラトナをかばったり心配したりする描写もありましたが、それは雇い主として・人としてというより、女性としてだった、ということ?私は前者だと思っていましたが… 人間としての交流が素敵、というのはわかりましたが、それ以上の恋愛関係を求めているようには見えませんでした。
全体として繊細な描き方をしている作品だからこそ、2人の感情の動きももう少し描いて欲しかったなと思います。テーマ自体、映画よりも、より時間をかけられるドラマ向きかな、とも思いました。
よくわからん③ 音楽が唐突
ボリウッド的作品も、なかなか唐突に歌とダンスのシーンが入ってきますが、この作品でも、短いながら2回音楽メインの場面が唐突に入ってきて、ちょっとついていけなかったです。
ボリウッド的作品では、唐突ではあっても登場人物の喜びや悲しみを強調するような形で音楽などが入っているかと思います。しかしこの作品の場合、そういう文脈もあまり感じられず、「音楽も入れた方がいいから入れてみた」みたいな、中途半端な印象を受けました。ボリウッドを見慣れた客にも受け入れられるようにしたのかなと思いました。
最後は「じんわり&もやっと」の 、ヨーロッパ的作風。
ボリウッドにつきもののどんでん返しな脚本でもなく、最後はじんわり考えさせられるヨーロッパ的な作風です。結末も、オープンエンドな感じが、「これからこの2人どうなるの〜」と考えさせられます。
私はどんでん返し的展開や、ハッピーエンドな作品の方が好きなので、この手の映画を見るともやっとしてしまいます。そういう意味で、私の好みには合っていませんでした。
その一方で、インドらしいカオスな街や色鮮やかな布や服を楽しめたりもして、インドに行きたくなりました。ボリウッドも良いですが、「インドでもこういう作品もできる」というのはこれから期待したいところです。
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