ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

映画「天気の子」に見た、現実と非現実へのこだわりとバランス。【感想録①】

先日、話題の映画「天気の子」を見ました。新海誠監督の作品は初めてで、アニメーション作品も普段ほぼ見ない私でも、「いいものを見た!」と心底思える素晴らしい作品でした。

この記事ではまず、ネタバレありで、映画から一番感じた「現実と非現実」について書いてみたいと思います。


映画『天気の子』予報①

 

「現実」へのこだわり

作品を見ている最中から、「リアリティがすごい」と感心しっぱなしでした。特に舞台が東京で、身近な場所だからこそ凄さがより分かりました。

 

東京の街の描写

まず出だしから、東京の風景の細かい描き方にびっくり。新宿・池袋・渋谷など、「ああこれあそこだよね」とすぐわかる場面がたくさんありました。同じ場所を実写の映像で映しても普通の場面になってしまうかもしれませんが、アニメーションとして描いているからこそ、人の手を介して再現されている凄みと迫力を感じました。

そして、私にとっての東京の景色は、日常の延長線上にあるもの。おじいちゃんおばあちゃんの家はどちらも都内だし(中心部ではないけど)、子どもの頃から親に連れられてたまに多摩川を越えていた。大学は都内だから、通学するのはもちろん、友達と会うのも東京の中心部が多くなりました。

通学するようになってからは特に、ごちゃごちゃした街や人の多さにうんざりすることが増えたけど、いろんな友達と会った場所、行った場所の思い出もたくさんある。でも楽しかったことばかりじゃなくて、辛かったこともたくさんある。「嫌な日常」の中に、じんわりグッとくる思い出がある場所。そんな、心底苦いけれどそれが良い、良質のブラックコーヒーみたいな場所です。東京は。

だからこそ、そんな場所でこんなファンタジーで美しいストーリーが描かれていることで、そのきらめき・美しさが際立って見えました。こんな汚くてごちゃごちゃな街でも、こんな美しいことがあるかもしれないと信じさせてくれるような。

そしてそれは、外国から日本に来た人の視点を追体験させてくれているようにも思えました。以前学生団体の活動で、交流がある中東の学生を日本に数名招くプロジェクトをしたとき、彼らがなんでもない標識や道路の「止マレ」の表記を見て「アニメの世界だ」と言っていたのを思い出しました。

また、渋谷のスクランブル交差点では、私が「人多すぎ、うざ、クソ」みたいなやさぐれた気持ちになっている横で、たくさんの外国人観光客が写真や動画を撮っています。きっと外国から見た日本・東京は、私たちにとってのニューヨーク、タイムズスクエアみたいな場所のようなんだろうなと思います。

そしてそれと同時に、子どもの頃の世界の見方を思い出させてくれました。毎日が非日常で、新鮮で、発見があって。毎日を充実させようと、充実させることができると信じて必死だったあの頃。昔は新鮮でわくわくしていた東京の風景も、気づくと「嫌な日常」になっていた。でも、嫌だと思う自分がそれを作り出していたのかもと気づかされる。子どもの頃の世界の見方も忘れたくないし、最近持っている「日常の美しさや愛おしさに慣れたくない、いつまでも心震える自分でいたい」という思いを、この作品が再確認させてくれました。

 

若者のリアル

また、「若者が接している現実」にも恐ろしく忠実で驚きました。

まず驚いたのは、冒頭から何度かある、主人公・帆高がYahoo!知恵袋に質問を投稿するもののクソみたいな返答が返ってくるという描写。あるあるwとクスッとしてしまう場面でした。実際エンドロールにYahoo!いたし(笑)、Yahoo!知恵袋の画面などにも忠実。

そして、よくTVドラマではiPhoneが全然使われてなくてアンドロイド系のスマホばっかり、というのがありますが、この作品ではiPhoneの鳴る音や画面など忠実に再現していて、驚きました。ドラマはスポンサーとかの都合だろうと思いますが、日本では多数派のiPhoneが出てこないのって不自然だなと思っていたので、なんだか嬉しかったです。

そしてマクドナルドの様子も忠実でびっくり。壁紙のデザインや制服、商品も店内もリアルで、すごかった。エンドロールの最後の方にマクドナルドいましたね(笑)そういう協力がないとあそこまで描ききれないでしょう。心底感心してしまいました。

主人公は10代で、彼らが接しているはずのものをごまかさないという気概を感じました。

 

異常気象、気候変動を、プラスにも描く

「何ヶ月も雨が続き全く晴れ間がない」という東京の状況が物語の基盤にあるわけですが、あながち他人事ではないと思わされる現実感がありました。

実際今年の東京は梅雨の曇天が長く続きました。そしてちょうど先日、横浜でも大雨が降り、家から遠い場所ではありますが市内でも床上浸水や土砂崩れが起こりました。日本の各地でも、ここ数年は毎年豪雨の被害が報じられます。やはり海水温が上がる気候変動のせいでしょう。

この数年の豪雨や地震の被害によって、「避難は早めにしよう」「災害に備えよう」という機運は高まりつつあり、豪雨は「怖いこと」「嫌なこと」というイメージが(当たり前ですが)先行しています。

でもこの作品では、そんな「嫌なこと」をモチーフにしながら、「晴れるだけでこんなに喜べる」という方にまず着目したことが素敵でした。鮮やかな色彩の空の描写が見事で、今までにみた綺麗な空の光景、そしてそれに付随する自分の思い出もなぜか思い出されて、それだけで泣けてしまった場面もありました。映画は画面と音しか伝えていないのに、日を浴びた時の肌や目の感覚、暑さまで感じました。

一方で「雨が降り続いて東京が水没していく」という終盤のストーリー展開も、ファンタジーにも見えるけど「ありえない」とは言い切れません。そして、こんな描写だけだったら悲しくてショックな光景かもしれないけれど、「昔に戻っていく」という描き方も加えることで数百年スパンの長い時間軸を感じさせ、「あながち悪くない」「地球の長い人生のうちならこういうこともある」と思わせられました。そして、そんな中でも生きていく人たちの描写を見て「人間って思ってる以上にタフなのかも」とも思いました。

 

「非現実」と、古来の世界の捉え方

また、「現実」の描写に圧倒されると同時に、非現実的なファンタジーも濃密に描かれていて、その両輪で成り立つバランスが素晴らしかったです。

 

古来の世界観がファンタジーのモチーフ

そして、「非現実」と言っても、ゼロから発想しているというよりも、日本で昔から伝わってきた世界の捉え方を採用しているのが興味深かったです。「晴れ女」というのは身近に根付いている慣習的発想だし、「人柱」というのも、日本でも世界でもある「生贄」的発想ですよね。と言っても、私は作品を見るまで「人柱」という考えは知らなかったのですが。

 

ジブリ作品との重なり、繋がり

また、水を龍や魚のようなものに例えるのも、昔からある考え方で。かつ、私は「千と千尋の神隠し」や「崖の上のポニョ」を思い出しました。日本的考え方を採用するとジブリに似てしまうのか?見る側が類似点を見出してしまうのか?いくつか要因がありそうですが、いろんな場面でいろんなジブリ作品が重なって見えました。

終盤、陽菜が雲の上で意識を取り戻す場面では、たくさんの魚のようなものが陽菜を囲んでいましたが、ナウシカ王蟲に助けられる場面(黄金の野を歩くところ)を彷彿とさせました。そして帆高と陽菜が空から地上へ落ちていく場面は、「空中で手を繋ぐ」というところから「千と千尋」「魔女の宅急便」などを思い出しました。

でも似ているからと言って幻滅とかはしないし、逆に「日本の名作アニメ」に連綿と続く「イズム」のようなものを感じました。こういう点からも、「ポストジブリ」と評されるのも納得したし、他の新海誠作品もそれだけの力を持った作品群なんだろうなと想像できます。

 

現実も非現実もどちらもしっかり濃密に描き切っていて、「どちらも諦めない」という気概やこだわりを強く感じました。ものづくり・作品づくりをする人たちとしても尊敬するし、自分もそうありたいと思いました。

感想の続きはこちら。↓ 

mizukifukui.hatenablog.com