自分を探したくないから旅に出る。映画「百万円と苦虫女」から考える"旅"と"日常"。
昨日に続いて、以前見た映画で印象的だった言葉の記録です。
2008年公開の、「百万円と苦虫女」。私はAmazon primeで2017年に見ました。
主人公はフリーターの鈴子。アルバイトで100万円を貯めたら全く違う町へ引っ越すのを繰り返しています。ある時は海辺。ある時は山あいの村。そして町へ。そんな彼女の暮らし方を知った、バイトの同僚・中島君とのこの会話が印象的でした。
中島「自分探し、みたいなことですか」
鈴子「いや、むしろ、探したくないんです」
言い得て妙というか、すごく共感したし見事な表現だなと思ったのです。
「旅=自分探し」という了解
「自分探し」って、旅に出る人の口実や、そんな人を周りが表するために象徴的に使われる言葉。私も、ピースボートに乗船する時は、言葉にできない感覚・理由を「自分探し」という言葉に任せて表現したものでした。友人に「自分探しみたいな?」と聞かれ「そんな感じ」と答えたように、自分の中にある違和感やもやもやの説明を省くための言葉でした。でもそれだけ、「旅=自分探し」というのは了解が得られるのです。それなりに。
私は、環境を変えることで、これまでの環境では表出してこなかった自分があらわれる、ということはあると思うし、自分に合う環境・合わない環境があって、うまく合うところを見つけた方が生きやすい、とは思っています。
だけどこれは、「自分探し」というのとは少し違う気もしています。探す・見つけるというより、元からあったものを再発見したり、いろんな世界や選択肢を知ることで自分が行きたい道が見える、再確認する、みたいなものだろうと。
探したくないし、"探し方"がわからない、のかも
でも、映画のこの場面では、鈴子は「自分を探したくないから旅に出る」ということを表明しているわけですよね。この言葉は、先ほど書いた“了解”とは真逆の表現ですが、私にとっては痛いところを突かれた感覚でした。
町で知り合いができて、少しでも何かあると罪悪感を背負ってしまう。みんなが自分の罪や恥を知っているようで、後ろめたくなって居づらくなる。嫌われるのが怖くて、居場所から変えてしまう。こんな鈴子の姿に私自身もとても重なりました。長期的・定期的に何かにコミットし続けるのが難しいというか、しんどくなってくる理由には、こういう側面もあるなあと心底共感しました。
本当は、わからないままでいい。余白や可能性を残しておきたい。もしくは、自分のヘドロに向き合いたくない、知りたくない。だけど何かしているポーズだけは取りたい。だから自分を知る人がいない場所に行く。
旅と日常についての、考え方の変化
確かに、旅がくれるものは大きい。日本国内でも、地元と違う町の様子は新鮮で刺激的だし、海外なら尚更、言葉も生活様式も全く違ったりして面白い。知らなかったことを知れて、見たことのない景色を見て。映画や本だって、いろんな経験を追体験できる「心の旅」。日常だって、新鮮なことに目を向けていれば“旅”になると思っています。
だから、「人生は旅であり、全てが学びである」と思いつつも、日常をどう生きるかがやっぱり大切で、繰り返す日々の習慣からしか変えられないことがたくさんある。そんなことを、この数年、考えています。
3年ほど前までは、「人に何かを伝えたい、知ってもらうことできっかけになってほしい」と思っていたし、「(いろんな意味で)旅をし続けたい」と思っていました。だけど、結局「それを伝えてる自分はどうしてる?」という地盤がないと、人から見れば説得力もないし、自分の中にも虚無感が残ると思う。簡単に世界は変わらないから。
「自分一人からでもできることはある」「自分からしか変わらなくない?」と思えるようになったから、私が思うことを少しずつ自分で実践はしているけど、まだ不十分。
そして、自分の中でこんなに葛藤してるのに「逃げてる」なんて一言で、全て私のせいみたいに、何もしてないかのように片付けられたくないと思いつつも、逃げてるっていうのもわかる。でも向き合い方がわからない。もう一人じゃ無理なのはわかってるけど、助けを求める方法がわからない。
映画の後の鈴子も、この数年変わっていない私も、「自分を探したくないから旅に出る」モードから抜け出せるといいなあ、なんて、思ってみました。久々に見返したい。