コメディーとしても、政治的隠喩を探っても面白く見れる。映画「テルアビブ・オン・ファイア」感想。
イスラエル・パレスチナを舞台にした映画「テルアビブ・オン・ファイア」を見てきました。長らく紛争の舞台である彼の地の映画ながら、暴力も悲劇もなく、「面白かった〜」と終われる珍しいコメディー映画で、とても楽しめました。
一方で、前提となる状況の厳しさや、後から調べて理解できた、政治的な隠喩が込められた要素など、「ただのコメディーではない…。」と思わせられる側面もありました。内容や感想、調べたことを紹介します。
- あらすじ
- 登場人物・背景
- 散りばめられた「あるある」・普遍性
- 大きなどんでん返しはないものの、所々で笑える
- 映画の要素・設定に込められた政治・社会
- 軍隊・占領・検問所というシステムが生む「精神的占領」
あらすじ
不器用なパレスチナ人青年・サラームは、パレスチナの人気メロドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の撮影現場で、ヘブライ語の発音指導をする助手をしている。地元エルサレムからスタジオのあるラマッラーに通うには、日々イスラエル軍の検問所を通らなければいけない。そこで、検問所の司令官アッシと出会う。彼は妻がドラマのファンだということで、サラームは脚本に関わっていると咄嗟に言ってしまい、アッシはサラームに主人公の結婚などを強引に取り付ける。
以降、幾度となく検問所で呼び止められるようになったサラーム。アッシのアドバイスから、サラームは本当に脚本に関わるようになり、手土産のフムスと引き換えにアッシと脚本を一緒に考えるようになる。
登場人物・背景
監督であるサメフ・ゾアビ氏はテルアビブ在住のパレスチナ人。主人公サラームに、自分自身を投影したようです。
さまざまな人にアドバイスを受け、いろいろな意見が出され、聞くだけで疲れました。その時に閃いたのです。この状況をストーリーにしたらいい。いろんな人から意見を言われ、困りぬくクリエイターの物語を思いついたわけです。
主な登場人物は、
映画で描かれるドラマ内の登場人物は
また、前提となる知識を少し紹介しておくと、
- 検問所:イスラエル軍が設置している。以下の記事によると、「西岸には、常設の検問所だけでも96か所」あるとのこと。
髙橋 西岸には、常設の検問所だけでも96か所あり、すぐ近くであっても、パレスチナ人は移動する度にイスラエル軍によるIDカードや荷物のチェックを受けなくてはなりません。移動の自由が奪われているのです。検問所はいつも渋滞していて、学校に通うことをあきらめたり、仕事に遅れて失業してしまうことは珍しくないほどです。発作を起こした急病人が病院に間に合わず亡くなってしまうということも起きています。
「パレスチナで今起きていることは、世界の縮図です」 “人権野郎”が見たその現状とは|KOKOCARA(ココカラ)−生協パルシステムの情報メディア
- フムス:パンにつけたりして食べる、ひよこ豆のペースト。中東でよく食べられています。以前の記事でも紹介しました↓
では、これから感想を何点かに分けて紹介します。
散りばめられた「あるある」・普遍性
「あのドラマは反ユダヤ的だ」とイデオロギー的な観点で話をするアッシに対し、奥さんが「そういうところもあるけど、恋愛模様が面白いのよ」という風に言う場面がありました。
また、アッシの家庭でもマリアムの病院でも、テレビの前に立った主人公たちにドラマを見ている人たちが「見えない、どいて」と言う場面があって笑えました。
こういうのって普遍的な「あるある」なんだなあとも思わされたし、メロドラマを楽しみにしているのは民族が違っても変わらないんだなあと思いました。同時に、対立を超えられる“エンタメの力”というものも希望を込めつつ描かれていたのかなと思います。
また、検問所というパレスチナにとっての“日常”を舞台にしていることで、おそらく「検問所あるある」もふんだんに描かれていたと思われます。ちょっとしたことや特に理由もなく止められたり、必要以上のことを指示されたり、急いでいるのに言いがかりをつけられたり。
行ったことがないので詳しくはわかりませんが、普段から検問所を通るパレスチナの人々が見たら、共感したり笑えたりするポイントでもあったと思います。
大きなどんでん返しはないものの、所々で笑える
大きな展開はないものの、「これからどうなるんだろう」「どうやって終わるんだろう」というハラハラやわくわくは十分あったし、上記の「あるある」も含めて、笑える場面も多かったです。例えば、
- フムスに「トラウマがあって苦手」というサラーム(そんな人いる?!w)(…でも後々わかった理由に納得)
- 脚本のアドバイスをいろんな人に求める、間抜けで頼りないサラームの姿
- アッシの数々の発言:「脚本を書いてみた」「できればこの写真をセットに置いて」
などなど。そして特にラストは、「笑撃」と言うに相応しいものでした。それまでもふふwとなってしまう場面はありましたが、思わず声を出して笑っちゃうようなエンディングでした。
映画の要素・設定に込められた政治・社会
コメディーとして普通に楽しめる一方で、随所にイスラエル・パレスチナの政治的状況を隠喩した要素があったようです。
隠喩①:フムス
脚本を考えるにあたって、アッシが「美味いフムスを持ってこい」と要求するシーンは、とても印象的で、不思議でもありました。というのも、「イスラエル人もフムス普通に食べてるけどな?」と思ったからです。
アラブ人が住んでいたパレスチナという地域に、ヨーロッパなどからユダヤ人が「入植」し、1948年に建国された「イスラエル」という国家。その過程で、もともとそこに住んでいたパレスチナの人々は家や土地を奪われました。その「入植」は今も進んでいて、パレスチナ人が住める地域はどんどん減っています。
そんな占領に伴って、“文化の横取り”も起きています。パレスチナの文化として元からあったものを、イスラエル人が取っていった、その象徴的存在として「フムス」が描かれていたのです。“イスラエル料理”の一部としても有名なフムスですが、アラブ人の友達が「イスラエル料理なんてない」と豪語していたのを覚えています。食べ物の背景についても、政治的に複雑になってしまう状況なのです。
そんな状況なので、イスラエル側の人が、パレスチナの人にフムスを求めるのは違和感もありました。「ユダヤ人も我が物顔で食べてるじゃないか」と。
ですが、こちらの記者会見での二人の言葉で、「パレスチナ人にとってフムスは家で作って食べるものだが、ユダヤ人は外食で食べる」「イスラエル人は内心「アラブ人が作ったものの方がうまい」と思っている」みたいな話があり、少し納得いきました。でも実際そういう意見が多数派なのかはわかりませんが…
隠喩②:アッシの「結婚」へのこだわり
アッシがドラマの脚本で、ユダヤ人将校とアラブ人女性の結婚にこだわった理由は、映画の中では「アラブ人とユダヤ人が結婚すれば、検問所もなくなる。俺を検問所から出してくれ」というようなセリフに乗せられていたと思います。
「検問所はよくない・面倒」と思っているのは、実はイスラエルの人もそうなんじゃないか、と思わせられる場面でした。
しかしそれ以上に、ドラマでの「結婚」は「オスロ合意」の隠喩だったそうです。
劇中のアッシが強固に『(メロドラマの対立する国家間のキャラを)結婚させろ』と要求するのは、結婚式はオスロ合意を象徴しているから。非現実的な要求を、イスラエルの彼は押し付けようとする。
オスロ合意は、1993年にアメリカの仲介で、イスラエルの首相とパレスチナ解放機構の議長の間で結ばれたもの。しかしその合意は、パレスチナ人にはかなりネガティブに受け取られているようです。
和平につながる画期的な協定となるはずだったオスロ合意だが、その後に成人したパレスチナ人の若者たちの多くは、イスラエルの占領を固定化する単なる裏切り行為と捉えている。(中略)1993年以降、パレスチナ人はヨルダン川西岸(West Bank)におけるイスラエル入植地の絶え間ない拡大を目の当たりにしてきたのだ。
自治区の現状について、アブダラさんは「協定は、われわれに自治政府をもたらしたが、その自治政府は別の形でわれわれを占領している」と述べる。そして報復を恐れ名を明かすことを拒んだ別の若者も、「その占領とイスラエルの占領とを区別する唯一の違いは、彼らの話す言葉がアラビア語だということだ」と続けてコメントした。
(引用元同上)
軍隊・占領・検問所というシステムが生む「精神的占領」
検問所で、アッシはさも当然かのようにサラームに指示をし、時には身分証明証を取り上げ、誘拐まがいの連行までさせることも。逆にサラームは、アッシに言われることを受け入れざるを得ない状況。
映画の中ではどれも「ドラマのため」で、大げさ感があるので笑えてくるのですが、日常レベルでも起きていると思います。それは占領という構造上起きていることで、それを主人公たちに面白おかしく落とし込んでいるんだなと感じました。
先ほども引いた記事で、監督の「精神的占領は両国が持っていて、検問所で日々感じていることなんです」という話が紹介されていて、とても共感しました。
「占領」が、パレスチナ人だけでなく、その最前線に立たされるイスラエル人兵士にも悪影響をもたらしていることは、『沈黙を破る 元イスラエル軍将兵が語る"占領"』という本で描かれていました。
元イスラエル軍将兵へのインタビュー部分をいくつか引用すると、
- 検問所に立ったら、どのパレスチナ人もすべて敵だと思わなければなりません。(p63)
- おまえはこっち、おまえはあっちへ行け、こうやって、ああやって...言ったとおり動くんです。指先一本で彼等を服従させるのです。他ではこんな経験はできません。(中略)自分の邪悪な行動をやり過ごすためには、やっていることを楽しまなければいけない。(p69)
- よくわからないのですが、自分のなかの何かが”死んでしまった”という感じです。相手に対して深い感情が持てないのです。(p74)
パレスチナ人を対等な人間として見ないイスラエル人兵士達は、元から人間味のない極悪人なのではなく、軍隊や占領という構造がそうさせるということ。検問する・されるという構造が、人間としての序列や上下関係のように思えてくること。それが、監督の言う「精神的占領」なのではないでしょうか。映画ではそれを皮肉を込めつつ、面白おかしく描き出していると思いました。
色々と考えさせられる要素はありますが、もちろん喜劇として十分面白いので、パレスチナのことなどに詳しくないという人でも見て欲しい映画です。中東の人々が見たらどんな感想を持つのかも気になるところ。
関連記事