ふーみんLABO(仮)

26歳女が「納得できる自己紹介」を目指して執筆中。エコ・節約・映画など、私の頭の中を可視化するため、とりあえず色々書いてみようという実験です。

想像力の余白という、心地よさと自由。【読書録:深夜特急 第2便】

最近時々地元の図書館に足を運ぶようになった。気に入っている雑誌のバックナンバーを借りに行ったり、ほかの本を借りてみたり。

https://www.instagram.com/p/BFTsdygs2T6/(2年ほど前から愛読している「ソトコト」。最近はお金と置き場所の節約のため図書館で済ませるようになってきた、、)

 今日も、借りた本を返し、また何冊か借りて帰ろうと思い、図書館の2階をふらついてみた。そしてふと、「そういえば『深夜特急』気になってたんだった」と思い出した。探してみると、3巻のうちの2巻目が見当たり、前も1巻目がないから諦めたのを思い出し、まあいいかと思って今日は借りた。夕方に借り、一気に夜に読み終わってしまった。

大学に入ってから、本当に小説の類いを全く読まなくなっていた。読むのは、関心のある地域に関する専門的な本や、新書コーナーで目についたものばかり。

深夜特急』については、大学に入ってすぐ、そのとき入っていたサークルの先輩が教えてくれて初めて知った。それ以来頭の片隅にはあったものの、忘れ去っていた。だけど昨夏乗ったピースボートで、「TABIPPO」の発起人のひとり・翔くんが、『深夜特急』を立ち読みしたことがきっかけで海外への旅に強烈に憧れ、世界一周の旅にもつながったと船の企画で聞いて、「そういえばそれずっと読んでなかったな」と思い出した。

 船旅も、帰ってきてからもう3ヶ月も経ってしまっているけれど、ようやくこのとき思い出した本を読むことができたというわけだ。

深夜特急〈第二便〉ペルシャの風

深夜特急〈第二便〉ペルシャの風

 

 

引き出された記憶と感覚の、喜び。

 小説すら読むのが久々だったので、文字情報から場面や登場人物を想像することがもはや新鮮だった。でも久々だったからこそ、海外の旅が舞台というのも手伝って、小説をよく読んでいた中学生頃の私とは、頭の中にある景色や五感を伴った経験の記憶が全然違うということがありありとわかった。

例えば、インドでリキシャの運ちゃんがひっきりなしに声をかけてくることや、移動手段や市場での買い物で値切り交渉をしていくこと。背中に背負う荷物の重さ。1日の終わりの疲弊。『深夜特急』の著者が経験した旅とは時代も含め違うことがたくさんあるけれど、私もこれらの経験がある。だからいちいち、ここで描かれる場面がありありと思い浮かぶし、"これを読んで想起された経験が自分の中にある"という事実が、私のしてきた旅も幻でなく本物だったんだな、と思わせてくれた。うれしかったし、ぞくぞくした。

f:id:m_crescent:20170304024224j:plainピースボートで、インド・コーチンに寄港したときの写真。港に並ぶオートリキシャ。運転手たちが周りに何十人とわらわらしていた。)

そして、今までなら何とも思わなかっただろう文章が、いろんな旅を経た今読むからこそ激しく共感したりする。そこに、自分を感じる。

私にはひとつの怖れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その怖れとは、言葉にすれば、自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか、というものだった。数ヶ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるのか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終ったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果してうまく折り合うことができるかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、私は、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか。

沢木耕太郎深夜特急 第二便 ペルシャの風』296p

 

動画は、想像力の余白が少ない。

最近、SNS上では動画もたくさん上がっていて、往々にしてそれは、タイムライン上で手を止めると動画は勝手に再生され始めるようになった。それはなんだか、多量の情報を押し付けられているようで、きもちわるい。ただでさえ、動画は音と映像でリアリティがあって、人間という動物の性か、動くものには意識を向けざるを得なくて、動画があれば見ざるをえなくなる。

そして動画という情報媒体は、想像力を働かせる余地が少ない。想像しなくても、十二分なほど欲しい(or伝えたい)情報は動画に乗っかっているように見える。だから、ただ思考をやめて情報を受容するにとどまってしまう。その、思考を奪われる感覚も、気持ち悪さを引き起こしている。

想像力を奪われると、「そこに自分がいない」虚しさも襲ってくる。関わろうにも関われないのだ。

 

想像することがくれる、わくわくと自信。

わかりにくいこと、複雑なことばかりの世の中と、複雑なことを理解する時間を割けない・割こうとしない人々によって、時代は「わかりやすさ」を求めている。動画は、わかりやすいことこの上ない。料理やヘアアレンジなどは本当に、動画で見るとイメージもついて、やってみようと思えたりもする。

でもその裏で、きっと私たちは「想像すること」を忘れている。わからないことはすぐ突き放してしまう。せっかく、人間は論理的に考える力があったり、助け合うことで社会を作り生き延びてきたりしたのに。

私は久々に小説を読んで、久々に想像力を発揮できて、いろんな経験の引き出しを探し開けられた感覚があった。頭や心にいる小さな自分が、生き生きと駆け回るのを感じた。今までの私の経験の中で、できるだけその場面に近いものを引っ張りだして構成していくこの感覚は、なんとも言えないわくわく感とほんの少しの自信をくれた。

 

達成感が伴う、読書という営み。

今はインターネットで、どれだけでも旅行記などは読める。だが、どれも断片的であったり、それこそ情報が豊富すぎて、想像力を働かす感覚はない。検索すれば無限に出てきてきりもない。ただ欲望を掻き立てられるだけだ。

小説として、そして実際の本として、ひとりの旅行を共にする気分を味わえるというのは、インターネットにあるブログなどとはまた違うのだなと思った。1冊という区切りがあり、読了という達成感もある。今1冊のうちのどれくらいを読んだかもわかる。これがまた、心地よさにもつながる。

久々の(小説の)読書が思い出させてくれた感覚は、思いのほかたくさんあった。そしていつか書き手になりたいという人の気持ちもわかった気がした。